しゃべる人形

「ただいま」
僕がそう言うと、キッチンから母さんの明るい声が返ってきた。
「お帰り」
玄関の扉を開けると、夕食の匂いとともに母さんの姿が見えた。いつもより随分と遅い帰宅に、母さんは少し訝しげな顔をする。
「今日は随分遅かったね」
僕は黙って靴を脱いだ。あかりと歩いた桜坂の余韻、繋いだ手のひらの熱。それらがこぼれ落ちてしまいそうで、うまく言葉が出てこない。だが、僕の様子をじっと眺めていた母さんは、ふっと表情を和らげた。
「ああ、分かった。……好きな人、できたんでしょう?」
「……え、なんで分かんの?」
「母親だからね。あんたの顔を見れば、何でも分かっちゃうんだよ」
母さんは呆れたように、でも少しだけ嬉しそうに笑った。しかし、すぐに彼女は少しだけ真剣な目つきになり、声を落として続けた。
「……もしかして、あの知的障害のあの子のことでしょう?」
心臓が小さく跳ねた。母さんの言葉には、最初、戸惑いや迷いのような響きがあった。「知的障害の方との付き合いは、色々難しいことも多いよ」……それは、世間一般の常識という名の、母さんなりの心配だったのだと思う。
僕はうまく言葉を返せずにいた。けれど、そんな僕の沈黙を肯定と受け取ったのか、母さんは深いため息をつき、すぐにいつもの優しい顔に戻った。
「まあ、あんたがそこまでその子を想っているなら、しょうがないね。私があんたの恋に反対する義務なんてないんだから」
そんな会話の最中、勢いよく玄関の扉が開いた。父さんだ。上着を放り投げ、手際よく冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
「おいおい、帰って早々、なんだか騒がしいな!」
事の顛末を聞いた父さんは、豪快な笑い声を上げた。
「なんだ、秋夫に春が来たってか! 知的障害がどうとか、俺にはよく分からんが、お前が誰を好きになろうが関係ねえ。これはめでたいことだ、お祝いだ!」
父さんは次々と酒をテーブルに並べ、母さんも「もう、しょうがないわね」と苦笑いしながら、急いでつまみを作り始めた。僕の初恋の告白は、あっという間に我が家のどんちゃん騒ぎにかき消されていった。
父さんの笑い声と、母さんの小言。そんな喧騒の中で、僕は改めてあかりの存在が僕にとってどれだけ特別かを噛み締めていた。ここは僕の帰る場所。そして、明日もまた、あかりに会いにいくための場所なんだ。