しゃべる人形

ナースステーションの奥にある、意外なほど静かな特別室。そこには病院という無機質な空間には似つかわしくない、温かな畳の香りが漂っていた。
「あかりちゃん、頑張ったご褒美ね」
藤田ニコルに似た看護師が、湯気の立つコーヒーをあかりに差し出した。あかりがそれをすすり、ホッと安堵の吐息を漏らす。僕はその傍らで、静かに獲物を狙う獣のように看護師を見つめていた。
「秋生君も、何か欲しいものある? ご褒美、何がいい?」
ついにその瞬間が訪れた。僕は鼓動を抑えながら、ゆっくりと口を開く。
「コーヒーじゃなくて……あなたの、それが欲しいです」
あかりが横から、ケタケタと楽しげに笑い声を上げた。
「あはは! ニコルさん、この人ちょっと変わってるでしょ? この間も私の友達に同じことしたの。親切な女の子の飛沫ばっかり狙うのが、この人の癖なんだから」
看護師はきょとんとした後、事情を察して目を丸くした。
「ええっ……それはびっくり。本当なの?」
その時、僕の脳裏には窓の外に広がる宇宙への想いが駆け巡っていた。ちょうど今、2031年。拡張ミッションを続ける「はやぶさ2」が、地球へ最接近するフライバイに挑む時刻だ。僕の渇望と、遥か彼方の宇宙探査機の飛行が、奇妙なシンクロニズムを見せていた。
「病院だから感染対策はあるし、ダメに決まってるでしょ?」
そう言いながらも、看護師の瞳には拒絶ではなく、好奇の光が宿っていた。
「でも……まあ、ほんの少しだけなら」
彼女がそう言って微笑んだ時、あかりが畳の上で身を乗り出した。
「ニコルさん、知ってる? この人、このことでこの間裁判になっちゃったんだよ。SNSに勝手に書かれて、ニュースになっちゃってね。でも、隣の法廷では高校生を突き落とした人の重い裁判やってたから、私たちのことなんて裁判官も笑い話にして終了だったの。誰も傷つけてないし、ただの奇妙な趣味なんだもん」
あかりの軽妙な暴露に、看護師は声を上げて笑った。
「あはは! 秋生君、あかりちゃんと付き合ってるのにそんな趣味があるの? ……でも、わかるかも。親切にしてくれた人の何かが欲しいって気持ち、なんかちょっとだけわかる気がする」
彼女は僕の顔を覗き込み、妖しく、けれど慈しむように唇を寄せてきた。
はやぶさ2が地球の重力を利用して加速するように、僕の渇望もまた、彼女の親切という重力に引き寄せられて加速していく。病院の静寂の中、僕たちは「親切」という名の極めて個人的な宇宙を、誰にも邪魔されることなく共有していた。