しゃべる人形

「電車の中での唾液収集」。そのあまりに奇妙な癖は、SNSの波に乗って瞬く間にデジタルタトゥーと化した。TBS『Nスタ』で長谷川氏が眉をひそめ、「感染対策の観点からも、衛生上も信じがたい」と切り捨てる。テレビの向こうで世間が僕を異物として解体する中、暇を持て余した警察が、その「話題」を裁判のネタとして拾い上げた。
起訴状には、誰からも提出されていない被害届の代わりに、SNSのスクリーンショットが添付されていた。
裁判当日。隣の法廷では、高校生を橋から突き落とした二十三歳の女の判決が下されていた。懲役二十七年。社会を震撼させたその重苦しい判決の余韻が、裁判所全体に影を落としていた。
その直後、僕の裁判が始まった。
裁判官は隣の法廷から引き継いだ黒い法衣をまとい、退屈そうに起訴状を眺めている。隣の「二十七年」という重みと、僕の「飛沫収集」という滑稽な事実は、あまりにも対照的だった。
「……それで、原告は誰かね」
裁判官の問いに、検察官は沈黙した。被害者はいない。親切を施した女の子たちは、僕を訴えるどころか、僕のポケットの中にある容器のコレクションを理解しようとしていた。
「被告の行為に、被害者は存在しません。世間の注目を集めたからといって、これを法で裁くのは無理があるのでは」
裁判官はため息をつき、あからさまに法廷の空気が冷めていくのを感じた。海外メディアまでが面白がって取材に来ていたが、法廷の幕切れはあまりにも呆気ないものだった。
「法は、当事者が納得している関係性にまで踏み込むほど暇ではない。……退廷を許可する」
あまりの無意味さに、裁判は話題に終わった。
外に出ると、法廷の重苦しい空気とは裏腹に、市原の空は冷たく澄んでいた。橋から誰かを突き落とすという「明らかな悪」と、誰かの優しさを吸い上げて生きる「僕たちの歪な愛」。司法は後者を裁くための物差しすら持っていなかった。
僕はポケットの中で、あかりと遥、そしてしおりの温もりが混ざり合った小さな容器をそっと握りしめた。
「行こう、あかり」
世間が僕をニュースとして消費し、忘れていっても、この小さな液体の中に閉じ込めた「居場所」だけは、何者にも奪わせない。僕たちは、社会の冷たい正義が届かない夜の闇の中へ、ゆっくりと歩き出した。