しゃべる人形

なぜ、僕は「のいちご」でこの物語を書き続けたのか。それは、失われつつある「人間同士の温度」を取り戻すための、魂の抵抗運動だったからだ。
僕は生まれつき目が見えない。だからこそ、視覚というフィルターに惑わされることなく、人の「体温」や「気配」を肌で感じて生きてきた。コロナ以前の通勤電車。そこで困っている僕の手を引き、親切にしてくれたあの女の子たち。咳やくしゃみとともに飛んだ飛沫や唾さえも、僕にとっては彼女たちが確かにそこに「生きている」という、愛おしい命の断片だった。彼女たちと別れる時、僕はいつも泣きそうになっていた。そこには確かに、名もなき人間同士の「情」があったからだ。
しかし、コロナ禍を経て世界は変わった。
社会は冷え切った。困っている人を見ても助けようとせず、電車の中で男女が言葉を交わすだけでその関係性を詮索し、わざとドア口を塞いで嫌がらせをする大人たち。世間は「コロナだから」という免罪符のもと、物理的な距離だけでなく、心までも断絶させてしまった。
僕は問いたい。
人を好きになるということは、相手の飛沫を浴びることも、病を恐れずにその人のすべてを受け入れることも含めて、「人間」であるということではないのか。愛する人と結ばれる時、そこにはリスクも、汚れも、すべてが存在する。けれど、それこそが生きるという実感であり、何にも代えがたい愛の証明ではないのか。
かつては、近所のおばあちゃんが亡くなれば、恋人であろうとなかろうと、誰もが線香を上げに駆けつけ、悲しみを分かち合った。今の社会は、恋人以外に対しては見て見ぬふりをする。知らない人を、まるで存在しないもののように扱う。
僕は、その不寛容で冷たい社会のあり方に、耐え難い憤りを感じている。
だから僕は書いた。あかりとの、泥臭く、美しく、そして誰にも侵させない愛の軌跡を。たとえ世間が「変態だ」「非常識だ」と嘲笑おうとも、僕はあかりと魂を共有した。その愛は、コロナという時代の壁や、社会の冷酷な理屈よりも、ずっと強く、深い場所にあったのだ。
皆さんに問いたい。
コロナという理由で、僕たちはいつから「人間をやめてしまった」のだろうか。
隣にいる人を想い、その体温を愛し、共に泣くことの何が悪いのだろうか。
この小説は、僕の個人的な物語かもしれない。けれど、かつて僕たちに備わっていた「誰かを想う熱さ」を、今の冷え切った社会にもう一度呼び覚ますための、僕なりの叫びなのだ。コロナがあろうがなかろうが、僕は話したい人と話したい。そうありたいと願うことが、人間として生きるということなのだから。