しゃべる人形

抗がん剤投与の当日。無菌室の扉は鉄壁の封鎖を告げていたが、僕は理性をかなぐり捨てていた。マスクを三枚重ね、顔にはビニール袋を被り、息も絶え絶えの状態でその禁忌の聖域へと足を踏み入れた。
室内は薬品の匂いと、あかりの体から滴り落ちる苦痛の気配で満ちていた。あかりは限界を超えて嘔吐していた。僕はその場に這いつくばり、差し出した小さな瓶へと、彼女が吐き出したすべてを受け止めた。
「これに入っていいよ……」
僕の狂気じみた献身に、あかりは弱々しく、しかし確かに「ありがとう」と微笑んだ。その言葉を聞いた瞬間、僕たちの堰は切れた。泣き崩れる僕と、死の縁で震えるあかり。そこへ駆けつけたあかりの母親は、僕の姿を見て、ただ圧倒された。高校生である僕が、愛する人の汚物さえも慈しむその姿を目の当たりにし、母親の瞳には理解と憐憫、そして耐えがたいショックが入り混じっていた。
部屋の隅では、藤田ニコル似の看護師が立ち尽くしていた。彼女は僕の手を握り締めることしかできない。その手は冷たかったが、僕の体温を懸命に受け止めようとしていた。モニターの電子音が、あかりの残り少ない時間を無慈悲に刻んでいる。
医療従事者が冷酷なのではない。どれほど技術を尽くしても抗えない死の絶対性、その過酷な現実の中で、彼らは「治療」という名の戦線から一歩も引くことが許されないのだ。面会者を慰める心の余裕すら、日々の激務と死の重圧が奪い去ってしまう。
僕はその現実を痛いほど理解していた。彼女たちの無力さも、その奥にある深い苦悩も。だからこそ、僕は彼女の手を握り返し、あかりのモニターを見つめながら、声を上げて泣き続けた。この無菌の地下室で、抗がん剤の点滴が刻むリズムと共に、僕とあかりと、そして立ち尽くす彼女たちの時間が、ただ虚しく、しかし熱く流れていった。