しゃべる人形

車内の畳には、柔らかな陽光が落ちていた。運転席という概念すら曖昧なその古い高級車で、私はハンドルを握っている。だが、視線は常に後部座席にある。
そこで眠っているのは、マリアだ。まだ生まれたばかりの赤ん坊である彼女は、畳の香りに包まれて、無防備な寝息を立てている。その小さな背中を、アンナが丁寧になでていた。アンナの指先は、マリアの鼓動を確かめるように、ゆっくりと、何度も繰り返しその小さな背中をさする。
現実世界であれば、子供はチャイルドシートという名の安全装置に固定され、親と引き離されるのが「正解」とされる。だが、この車内にはそんな理不尽な壁は存在しない。車そのものが一つの生活の場であり、畳の上で親子が肌を寄せ合い、ただ静かに移動していく。私たちは、安全という数値のために人間性を犠牲にする現代社会の教義など、とうに捨て去っているのだ。
アンナが、眠るマリアの横顔を愛おしそうに見つめる。その瞳の奥には、効率などという言葉では計れない、原始的で、しかし何よりも確かな愛情が宿っていた。
私は、この古い高級車のエンジン音を聞きながら思う。現代の車がどれほど高性能で、どれほど安全であろうと、そこにはこの畳の上の温もりはない。あかりは、その光景を横で見つめながら、まるで私の思考をなぞるように小さく息を漏らした。
「春香、これが本来の姿なんだ」
誰に語りかけるでもなく、私は呟く。マリアの寝息、アンナの優しい手つき、そして古いエンジンが刻むリズム。すべてが私を救い出す。冷え切った現実社会の「常識」なんてものは、この畳の上ではただの埃にすぎない。私は車を走らせる。終わりなきこの物語の坂道を、大切な温もりを乗せたまま、どこまでも登り続けていく。