しゃべる人形

僕の怒りは、まだ終わらない。伝えたいことが、喉の奥で澱のように溜まっている。
大人というのは、どうしてこうも冷酷なのだろうか。自分にとって「必要なくなったもの」に対して、彼らは驚くほど無関心だ。障害を持つ人や病を抱える人がどんなに困っていても、見て見ぬふりをする。職場では、少しばかり効率が落ちただけで、使い古した機械をまるでゴミのように迷いなく捨てる。
大人にとって、人間も物も、等しく「用済み」の対象でしかない。
僕は、そんな彼らの論理がたまらなく憎い。でも、僕には分かるんだ。物にだって、魂が宿る瞬間があるということが。
僕が子供の頃、親父は建設業をしていた。親父の会社から運ばれてくるのは、大人が「廃材」や「不要物」と呼ぶガラクタばかりだった。けれど、僕にとってそれらは宝の山だった。
壊れた古い運搬車を、僕は「各駅停車の車両」に見立てた。鉄錆が浮き、無骨な形をしたその車体は、僕の魔法でどこまでも走る夢の乗り物になった。近所の子たちが乗っている、ピカピカのキャスター付きのおもちゃなんて目じゃない。僕は、電柱の端材を一つ一つ並べて、線路に見立てた。そこは、僕だけの路線の駅になった。
打ち捨てられた廃材の一つひとつに、僕は新しい命を与えていたんだ。
「もう二度と走れない」と大人たちに断じられたはずの物が、僕の電車ごっこでは、朝の光の中を力強く走り抜けていた。
大人は、物を捨てる時に「また買えばいい」と言う。けれど、僕は知っている。壊れたもの、使い古されたものには、それまで支えてきた時間という重みがある。それを僕たちは、遊びという名の愛着で抱きしめていた。
今、世の中を見渡すと、AIだ、効率化だと騒いでいる。大人たちは「新しいもの」に飛びつき、古くなったものを瞬時に切り捨てようとする。だけど、あかりや、僕たちのような病を抱えた人間を「社会の足手まとい」として切り捨てようとするその感覚と、廃材をゴミとして捨てる感覚は、全く同じだ。
彼らには見えていないんだ。
捨てられようとしているその物の中に、どれほどの思い出と、どれほどの輝きが残っているのか。
僕はこれからも書き続ける。大人が「用済みだ」と切り捨てた場所や、忘れ去られた人々の声を拾い集めて、それを僕だけの「線路」にする。
たとえ世の中が、僕たちを「時代遅れのガラクタ」として隅に追いやろうとしても、僕は決して捨てない。この教室でみんなと泣き合ったあの記憶も、大人たちが忘れてしまった「命」の重さも。
僕の物語は、廃材で作り上げたあの各駅停車のように、ゆっくりと、けれど確かに走り続けていく。大人が決して手に入れられない、一番大切な場所へと向かって。