翌日、いつもの部屋にはピンと張り詰めたような静かな空気が満ちていた。
皆の前に立った夏江先生は、ゆっくりと室内を見渡し、深く静かな声で口を開いた。
「今日は、『命』についての授業を行います」
その声は決して声を張り上げたものではなかったが、その場にいる全員の背筋を自然と伸ばさせるだけの凄みがあった。
「つい先日、あんなさんのもとにマリアちゃんという新しい命が誕生しました。一つの命がこの世に生まれ落ちるということは、本当に奇跡であり、手放しで祝福されるべき素晴らしいことです」
夏江先生の言葉に、部屋の空気がふっと緩み、温かいものが流れた。しかし、先生の眼差しはそこから、急に冷たい現実の底へと向けられた。
「ですが、私たちは新しい命の誕生を喜ぶ一方で、理不尽に奪われ、消えていった命のことを忘れてはいけません」
夏江先生は一呼吸置き、静かに言葉を紡いだ。
「遙かさんのお母さんは、ある日突然、心ないドライバーの運転する車によって命を奪われました。昨日まで当たり前のようにあった日常と未来が、暴力的なまでに断ち切られたのです。そして、この数年間で、コロナによって家族に看取られることもなく、たった一人で息を引き取らなければならなかった無数の人々がいます。さらには、戦争の犠牲となり、誰にも知られずに死んでいった人々も」
夏江先生は、集まった全員の顔を一人ひとり、真っ直ぐに見据えた。
「今の世の中を見てください。『コロナが5類になってよかった』『ようやく元通りの生活ができるね』と、生きている人間たちは安堵し、浮き足立っています。テレビをつければ、まるで何もなかったかのように、陽気なCMや明るいニュースばかりが流れている。亡くなった人々が抱えていた恐怖も、遺族が今も抱え続けている深い悲しみも、すべて『過去のこと』として置き去りにされようとしています」
その言葉は、昨日遙かが胸の奥で感じていたあの「肌が立つほどの怒り」を、そのまま抉り出すかのようだった。
「それは、あまりにも傲慢な『生者の都合』です。社会は立ち止まることなく進んでいきます。都合の悪い悲しみには蓋をして、無かったことにして前へ進もうとする。けれど、一つの命が生まれ、一つの命が消えたという事実は、決して相殺されるものではありません。生きていくために忘れることが必要だとしても、私たちは、彼らの命が理不尽に消え去った事実まで『無かったこと』にしてはいけないのです」
痛いほどの沈黙が降りた。
遙かは自分の胸の奥で燻っていた言葉にならない違和感が、夏江先生の静かで熱を帯びた声によって、確かな輪郭を持って解き放たれていくのを感じていた。
「新しい命を歓迎すること。それと同時に、消えていった命の重さを決して忘れないこと。生者の都合で回るこの残酷な世界の中で、それだけが、残された私たちにできる唯一の抵抗なのです」
窓の外では、昨日と何も変わらない景色が広がっている。しかし、夏江先生の言葉は、そこにいる全員の心に、決して風化することのない重い楔を静かに打ち込んでいた。
皆の前に立った夏江先生は、ゆっくりと室内を見渡し、深く静かな声で口を開いた。
「今日は、『命』についての授業を行います」
その声は決して声を張り上げたものではなかったが、その場にいる全員の背筋を自然と伸ばさせるだけの凄みがあった。
「つい先日、あんなさんのもとにマリアちゃんという新しい命が誕生しました。一つの命がこの世に生まれ落ちるということは、本当に奇跡であり、手放しで祝福されるべき素晴らしいことです」
夏江先生の言葉に、部屋の空気がふっと緩み、温かいものが流れた。しかし、先生の眼差しはそこから、急に冷たい現実の底へと向けられた。
「ですが、私たちは新しい命の誕生を喜ぶ一方で、理不尽に奪われ、消えていった命のことを忘れてはいけません」
夏江先生は一呼吸置き、静かに言葉を紡いだ。
「遙かさんのお母さんは、ある日突然、心ないドライバーの運転する車によって命を奪われました。昨日まで当たり前のようにあった日常と未来が、暴力的なまでに断ち切られたのです。そして、この数年間で、コロナによって家族に看取られることもなく、たった一人で息を引き取らなければならなかった無数の人々がいます。さらには、戦争の犠牲となり、誰にも知られずに死んでいった人々も」
夏江先生は、集まった全員の顔を一人ひとり、真っ直ぐに見据えた。
「今の世の中を見てください。『コロナが5類になってよかった』『ようやく元通りの生活ができるね』と、生きている人間たちは安堵し、浮き足立っています。テレビをつければ、まるで何もなかったかのように、陽気なCMや明るいニュースばかりが流れている。亡くなった人々が抱えていた恐怖も、遺族が今も抱え続けている深い悲しみも、すべて『過去のこと』として置き去りにされようとしています」
その言葉は、昨日遙かが胸の奥で感じていたあの「肌が立つほどの怒り」を、そのまま抉り出すかのようだった。
「それは、あまりにも傲慢な『生者の都合』です。社会は立ち止まることなく進んでいきます。都合の悪い悲しみには蓋をして、無かったことにして前へ進もうとする。けれど、一つの命が生まれ、一つの命が消えたという事実は、決して相殺されるものではありません。生きていくために忘れることが必要だとしても、私たちは、彼らの命が理不尽に消え去った事実まで『無かったこと』にしてはいけないのです」
痛いほどの沈黙が降りた。
遙かは自分の胸の奥で燻っていた言葉にならない違和感が、夏江先生の静かで熱を帯びた声によって、確かな輪郭を持って解き放たれていくのを感じていた。
「新しい命を歓迎すること。それと同時に、消えていった命の重さを決して忘れないこと。生者の都合で回るこの残酷な世界の中で、それだけが、残された私たちにできる唯一の抵抗なのです」
窓の外では、昨日と何も変わらない景色が広がっている。しかし、夏江先生の言葉は、そこにいる全員の心に、決して風化することのない重い楔を静かに打ち込んでいた。

