しゃべる人形

喫茶室を出たあとの空気は、先ほどまでの熱を帯びた感情を冷ますかのように、少しだけ肌寒かった。けれど、僕の右手を握るあかりの手のひらは、驚くほど熱を持っていた。その熱が、手袋を通さず直接、僕の血管へと伝わってくる。
「秋生」
あかりが立ち止まり、夜の帳が下り始めた街角で僕の名前を呼んだ。街灯の光が彼女の横顔をなぞり、ふわりと柔らかな影を作る。
「さっきの約束、忘れないでね。お母さんのこと、ちゃんと頼んだから」
彼女は僕を信じ切っている。僕という人間が、彼女の命の終わりまでをどう引き受けるか、その重さすらも「愛」という名の贈与として受け取っている。僕は彼女の手を握り返し、強く頷いた。言葉にしてしまえば軽くなるような気がして、僕はただ、彼女の体温を全身で受け止めることしかできなかった。
家路につく途中、正男とあんなが前方で肩を並べて歩いているのが見えた。正男はあんなの歩幅に合わせ、時折、彼女が躓かないかを確認するように視線を送っている。二人の背中もまた、喫茶室で交わしたあの祈りを抱えたまま、明日という名の未来へと歩を進めているのだ。
ふと、あかりが空を見上げた。
「見て。虹が出る前の、雨の匂いがする」
彼女の言葉に、僕は鼻を鳴らした。確かに、湿ったアスファルトの香りが風に乗っている。僕にとって、雨の日はこれまで「不便な日」でしかなかった。傘をさす煩わしさ、視界の悪さ、湿気。けれど、彼女と並んで歩く夜の雨なら、それは二人だけの聖域になるのかもしれない。
「あかり」
「ん?」
「僕たちが歩いていく先には、これからも雨が降るかもしれない。でも、その雨に濡れることも、パンを分け合うことの一部なんだと思う」
あかりは少し驚いたように僕を見つめ、やがて花が咲くように微笑んだ。
「秋生は、ときどき大人びたことを言うんだから。……いいよ。雨が降ったら、私が秋生の耳元で、物語の続きを囁いてあげる。そうしたら、どんな雨音も気にならなくなるでしょ?」
私たちは再び歩き出した。
背後にはもう、春香や塩見先生の姿はない。けれど、あの場所で流した涙の跡は、僕たちの皮膚に薄い膜となって残り、これからの日々を生き抜くための盾となってくれるはずだ。
街灯が一つ、また一つと点滅しながら僕たちの頭上を通り過ぎていく。
家までの距離は、もうすぐ終わる。けれど、僕たちの物語は、この先の長い夜を越えて、明日の光の中へと続いていく。僕はあかりの手を引いた。僕たちが選んだこの道は、誰にも邪魔されない、僕たちだけの、静かな、けれど確かな祈りの道だ。
遠くで、誰かの家の明かりが灯った。
それは、帰るべき場所があるという約束の光のように見えた。