しゃべる人形

喫茶室の静寂が、塩見夏恵先生の登場で一変した。不穏な空気の中、ニコちゃんが必死にあかりの涙を拭い、膝に乗せて慰めていたが、あかりの震えは止まらない。あんなもまた「自分の妊娠のせいで、あかりを傷つけた」という自責の念にかられ、パニック状態で混乱していた。
その沈黙を切り裂くように、塩見先生は静かに歩み寄り、教科書を広げるような口調で言った。
「いい? これから保健体育の授業を始めます。腰を下ろしなさい」
先生は、未成年の妊娠という社会的な是非を、頭ごなしに断罪することはなかった。むしろ、生命の誕生という根源的な営みと、それが直面する厳しい現実を冷静に語り始めた。
「社会的にはダメだと言われる。でも、命を授かってしまったのに、それを消すことは人道的に許されることじゃない。一方で、後先を考えずに無責任に生きていいわけでもない。そこに正解なんてないのよ」
先生の視線は、あかりの震える肩へと向けられた。
「あかりちゃん、あなたが妊娠を恐れ、秋生君との繋がりを『喉への執着』という形に求めてしまう気持ち、よく分かるわ。死が隣り合わせのあなたにとって、生命を宿すことは恐怖以外の何物でもないものね」
あかりは、先生の胸に顔を埋めて泣いた。塩見先生はあかりの背中を優しく撫でながら、力強く言葉を続けた。
「世間は『子供を産め』『少子化を止めろ』と騒ぐけれど、それに振り回される必要はないわ。子供がいる人生も尊い。でも、たとえ子供が授かれなくても、二人で寄り添い、互いの存在を確かめ合って生きる人生だって、何一つ劣ることはない。それは、あなたたち二人が選んだ、あなたたちだけの美しい『夫婦の形』なの」
先生の言葉は、氷のように張り詰めていた教室の空気を、少しずつ温かい湯気のように溶かしていった。社会の物差しや、未来への不安、世間の常識。そうした重たいものから、先生は僕たちを解放しようとしていた。
あんなの罪悪感も、あかりの恐怖も、僕たちの迷いも、すべてが「人間として生きるための試行錯誤」として受け入れられた瞬間だった。喫茶室の隅で、僕は先生の言葉を噛みしめていた。子供を授かったあんなと正男。それを恐れ、喉の奥という閉ざされた場所で愛を確かめ合う僕とあかり。
どっちが正しいとか、どっちが幸せだとか、そんなことはどうでもいい。ただ、こうして今、僕たちは生きていて、互いを想っている。その事実だけが、塩見先生の保健体育の授業を通じて、僕たちの心の中に静かに刻まれていった。