しゃべる人形

ベッドの上の空気は、熱を帯びているはずなのに、どこか張り詰めた冷たさを孕んでいた。窓の外では神楽ヶ谷の夜の風が鳴いている。
「私ね……高校を卒業したら、遠くの大学へ行くの。心理学を勉強したくて」
あんなの言葉は、まるで宣告のように部屋に響いた。遠距離という終わりの始まり。正男は衝動的に彼女の身体を抱きしめたが、その手の中で、あんなは頑なにマスクを外そうとはしなかった。
「……嫌だ。離れるなんて嫌だ。俺もついていく」
言葉だけは勇ましく口にしたが、それが実行不可能な夢想であることは二人とも理解していた。会えない明日を突きつけられた時、僕たちは本能的に、今この瞬間の命を焼き尽くすことで未来を消し去ろうとした。
しかし、あんなの身体は拒絶していた。かつて彼女が正男から遠ざかった理由は、他でもない新型コロナへの罹患だった。病は治ったはずなのに、彼女の精神には深い爪痕が残っていた。マスクの下に隠された自分の顔を見せること、それに対する恐怖と自己嫌悪。それは、もはや彼女にとって皮膚の一部のように剥がせない盾と化していた。
「外して……あんな、マスクを取ってくれ」
正男は懇願した。マスク越しのキスでは、彼女の存在をすべて受け入れられない気がしたからだ。彼は耐えきれず、あんなの耳元で抗う彼女の白い布を引き剥がした。
「嫌ッ!」
あんなの悲鳴が古びた部屋に反響する。引き剥がされたマスクには、彼女の荒い息遣いと飛沫がわずかに残っていた。それを見た正男は、あろうことかそのマスクを愛おしそうに拾い上げた。まるで、あんなという存在の証(あかし)を奪うかのように。
「……これだけは、ずっと持っておく。お前のすべてを、俺の中に残したいんだ」
あんなは呆然と正男を見つめた。その眼差しには、愛というよりも、理解しがたい異常な執着が宿っていた。
「正男君……何言ってるの? そんなの、おかしいよ……」
あんなは彼を落ち着かせようと、まるで患者に接するカウンセラーのような口調で話し始めた。けれど、彼女の言葉は正男の耳には届かない。彼の衝動は、彼女の言葉を、論理を、そして未来への不安をすべて呑み込んでいた。
正男はあんなを強く抱きしめた。彼女の震える背中を、二度と離さないという狂気的な意思で締め上げる。部屋の暗闇の中で、二人の息遣いが重なり、やがてその熱情は、一つの取り返しのつかない結末へと向かった。
壊れたホテルの一室。未来を失うことへの恐怖と、今この瞬間に全てを捧げる狂愛。正男はあんなを抱きしめることで、彼女という存在を自分の中に刻み付けようとした。
その夜、何かが決定的に変わった。あんなの体内に、かつてない命の兆しが宿る。それは遠距離恋愛という未来を物理的に拒絶し、二人を永遠に繋ぎ止めるための、あまりに重く、あまりに残酷な「錨(いかり)」だった。あんなは自分の胎内で育ち始める新しい命の予感に震え、正男はただ、愛と罪悪の狭間で、彼女の震える肩を抱きしめ続けた。
夜明けはまだ遠い。僕たちは、神楽ヶ谷の古いホテルの闇の中で、戻る場所のない未来へと、深く沈んでいった。