「あかり……あかり」
僕は何度も彼女の名を呼んだ。それは名前を呼ぶというより、この不安定な世界で唯一確かな存在を確認するための呪文のようだった。あかりは不思議そうに「何? 何?」と繰り返すが、僕はただ彼女の手を引いて階段を駆け上がった。
二階のあかりの部屋。閉ざされたドアの向こうで、僕は溢れ出る不安をもう隠せなかった。
「……ねえ、あかり。また緊急事態宣言が出たら、僕たち、もう会えなくなるかもしれない。ずっと離れ離れになるのは嫌なんだ。お願いだ、今日、ここに泊まらせてくれないか」
泣きじゃくりながらそう懇願する僕に、あかりは戸惑いながらも僕の肩を抱きしめた。その時、ドアが静かに開き、あかりのお母さんが立っていた。僕は身構えたが、お母さんの表情は驚くほど穏やかだった。
「あら、秋生くん。……いいわよ、泊まっていきなさい」
予想外の許可に、僕は呆然とした。お母さんは静かに微笑み、窓の外の暗い街を指差した。
「このご時世、外を出歩く方がリスクが高いわ。あかりは体も弱いし、私だって仕事が忙しくて……痛みもあるから、正直なところ四六時中つきっきりで構ってあげられないの。あなたが毎日いてくれた方が、あの子にとっても心強いわ」
それは、社会のルールという名の境界線が崩れ落ちた瞬間だった。そのまま僕たちは、お母さんが用意してくれた温かい夕食を囲んだ。
皮肉なことに、僕たちがこの家でどれほど自由に過ごそうと、家庭内の規律を乱す者はどこにもいなかった。あかりの父であり、僕の学校の教師でもある上松は、今日も帰ってこない。職員会議という名目なんて誰が信じるだろう。彼は今頃、あのザミジャ遺跡近くにある、妹が経営する風俗店に入り浸っているはずだ。
「……お父さん、今日も帰ってこないのね」
あかりが少し寂しげに呟く。でも、僕たちはその状況に安堵すらしていた。先生自身がルールを逸脱し、自分の快楽に溺れているからこそ、僕たちの存在は誰にも干渉されない。この家庭の「崩壊」こそが、僕たちにとっては唯一の、息の詰まるパンデミックを生き抜くための「安全地帯」だった。
食事が終わり、僕はあかりの部屋で彼女の鼓動を聞いていた。家の外ではコロナの恐怖が、そして家の中では教師の無責任な放蕩が、僕たちを世界から隔離している。
「秋生くんがいてくれるなら、もう何も怖くないよ」
あかりの囁きを聞きながら、僕は窓の外に広がる闇を見つめた。正義やルールなんて、この街の片隅では何の意味も持たない。崩れゆく大人たちの背中を見ながら、僕たちはただ、今夜の温もりだけを信じて生きている。
上松先生がどんなに道徳を説こうとも、彼自身がこの「秘密の部屋」の共犯者なのだ。僕たちは、この歪んだ、でも愛おしい日常の中で、どこまでも深く、誰にも邪魔されずに愛し合っていく。この夜の静けさが、僕たちの新しい始まりのように思えた。
僕は何度も彼女の名を呼んだ。それは名前を呼ぶというより、この不安定な世界で唯一確かな存在を確認するための呪文のようだった。あかりは不思議そうに「何? 何?」と繰り返すが、僕はただ彼女の手を引いて階段を駆け上がった。
二階のあかりの部屋。閉ざされたドアの向こうで、僕は溢れ出る不安をもう隠せなかった。
「……ねえ、あかり。また緊急事態宣言が出たら、僕たち、もう会えなくなるかもしれない。ずっと離れ離れになるのは嫌なんだ。お願いだ、今日、ここに泊まらせてくれないか」
泣きじゃくりながらそう懇願する僕に、あかりは戸惑いながらも僕の肩を抱きしめた。その時、ドアが静かに開き、あかりのお母さんが立っていた。僕は身構えたが、お母さんの表情は驚くほど穏やかだった。
「あら、秋生くん。……いいわよ、泊まっていきなさい」
予想外の許可に、僕は呆然とした。お母さんは静かに微笑み、窓の外の暗い街を指差した。
「このご時世、外を出歩く方がリスクが高いわ。あかりは体も弱いし、私だって仕事が忙しくて……痛みもあるから、正直なところ四六時中つきっきりで構ってあげられないの。あなたが毎日いてくれた方が、あの子にとっても心強いわ」
それは、社会のルールという名の境界線が崩れ落ちた瞬間だった。そのまま僕たちは、お母さんが用意してくれた温かい夕食を囲んだ。
皮肉なことに、僕たちがこの家でどれほど自由に過ごそうと、家庭内の規律を乱す者はどこにもいなかった。あかりの父であり、僕の学校の教師でもある上松は、今日も帰ってこない。職員会議という名目なんて誰が信じるだろう。彼は今頃、あのザミジャ遺跡近くにある、妹が経営する風俗店に入り浸っているはずだ。
「……お父さん、今日も帰ってこないのね」
あかりが少し寂しげに呟く。でも、僕たちはその状況に安堵すらしていた。先生自身がルールを逸脱し、自分の快楽に溺れているからこそ、僕たちの存在は誰にも干渉されない。この家庭の「崩壊」こそが、僕たちにとっては唯一の、息の詰まるパンデミックを生き抜くための「安全地帯」だった。
食事が終わり、僕はあかりの部屋で彼女の鼓動を聞いていた。家の外ではコロナの恐怖が、そして家の中では教師の無責任な放蕩が、僕たちを世界から隔離している。
「秋生くんがいてくれるなら、もう何も怖くないよ」
あかりの囁きを聞きながら、僕は窓の外に広がる闇を見つめた。正義やルールなんて、この街の片隅では何の意味も持たない。崩れゆく大人たちの背中を見ながら、僕たちはただ、今夜の温もりだけを信じて生きている。
上松先生がどんなに道徳を説こうとも、彼自身がこの「秘密の部屋」の共犯者なのだ。僕たちは、この歪んだ、でも愛おしい日常の中で、どこまでも深く、誰にも邪魔されずに愛し合っていく。この夜の静けさが、僕たちの新しい始まりのように思えた。

