しゃべる人形

喫茶店の空気は、僕たちの熱量に押されるようにして、どこか別の次元へ歪んでいった。
あかりの口元に、食べこぼしが残っている。彼女の知的障害による不器用さは、僕にとっては彼女という存在がこの世界に懸命に爪痕を残している証のように思える。僕は迷わず指を伸ばし、彼女の口の周りの汚れをそっと拭った。
そして、その指をそのまま自分の口へ運ぶ。
周囲から見れば、それは衛生的な常識を逸脱した、おぞましい行為かもしれない。実際、隣のテーブルの客は目を丸くし、店員でさえも「仲がいいね」と苦笑いしながらも、どこか引きつった表情を浮かべている。
遥と杏奈は、呆れを通り越して言葉を失っていた。
「またそれやるの……。あんたたち、本当にいい加減にしなよ」
そう言いながらも、二人は僕たちを排除しようとはしない。それが僕たちの「日常」だと知っているからだ。
あかりは最初こそ「やだ、汚いよ」と嫌がっていた。けれど、今の彼女は違う。僕が何を求めているのか、僕の愛がどれほど異常で、同時にどれほど切実なものであるかを理解し、あえて受け入れてくれるようになった。彼女は僕の指先から、あるいは口移しという身体の交換を通じて、僕が彼女のすべてを飲み込もうとしていることを肯定しているのだ。
僕の口の中で、彼女の体液と混ざり合った食べ物の味がする。それは決して綺麗なものではない。鼻水や唾液が混じり、粘りつくような感覚がある。だが、僕にはそれが、どんな高級な食事よりも甘く、命の味がした。
「おいしいね、あかり」
僕がそう呟くと、あかりは少しだけはにかんで、また不器用にパンを口に運んだ。
この喫茶店という箱の中で、僕たちは「常識」という名の鎖を完全に断ち切っていた。世間から見れば、知的障害がある彼女のケアを僕がやりすぎているように見えるかもしれないし、僕の執着を異常と断じるかもしれない。だが、そんな外側の視線など、僕たちにはどうでもよかった。
僕が彼女の汚れを舐めとることで、彼女の痛みや不器用さは、僕というフィルターを通してこの世界に受け入れられる。彼女の汚れた口元は、僕にとっての聖域であり、彼女の不器用な食べ方は、僕に対する絶対的な信頼のサインだ。
「秋生君、またついてるよ」
あかりがわざとらしく口元を汚して笑う。彼女もまた、僕がそれをどう扱うかを理解し、楽しんでいるのだ。
「もう……本当に見てられないわ」
遥が頭を抱え、杏奈はあきれ果てたように溜息をついたが、その表情には微かな温かさがあった。僕たちがどれほど社会の枠組みから外れようとも、この喫茶店の片隅で、この「不潔」で「濃密」な愛だけは、誰にも奪えない。
死刑執行官の冷たいシステムや、他者を排除して平然としている現代社会の冷酷さ。それらすべてが、今の僕には遠い夢の中の出来事のように感じられた。
僕たちは汚れていて、不器用で、どうしようもなく異常だ。けれど、こうしてあかりの命の欠片を分け合うたび、僕は、京都アニメーションの事件で失われた彼らが生きられなかった「今日」という一日を、何倍もの濃さで生きているのだと実感する。
「ねえ、秋生君。また明日も、美味しいもの食べに行こうね」
あかりの言葉に、僕は強く頷いた。
汚れも、異常さも、世間からの蔑視も、すべてを飲み込んで、僕たちは明日へ向かう。この愛がどれほど世間を逆撫でしようとも、僕は一生、この不器用な唇を離さないと心に誓った。