しゃべる人形

喫茶店の喧騒が、少しずつ僕たちの温かな空気に塗り替えられていく。
「秋生君、またその癖、始まった」
あかりがパンを頬張りながら、少し照れたように笑った。僕の視線が彼女の口元に釘付けになっていることに、彼女はとっくに気づいていたのだ。僕にとって、人が何かを噛み、咀嚼し、飲み込むという営みは、その人の「命」そのものを観察するような感覚に近い。そこには誤魔化しのない、生の真実があるからだ。
しかし、店員に事情を説明するために咄嗟についた「自閉症がある」という嘘が、今の僕には少しだけ苦く残った。自分の内側にある衝動を、社会が理解できる枠組みに当てはめて隠さなければならない。他者の口の中を覗き込むという行為一つとっても、現代社会はそれを「変態的」あるいは「異常」と決めつけ、排除しようとする。僕たちが共有しているあの温かな連帯の距離感は、この冷たい世の中では、どうしても理解されない「異物」なのだ。
そんな湿っぽい空気を吹き飛ばすように、あかりが爆弾を投下した。
「そういえば、秋生君が泊まりに来た時、私が使った歯ブラシで勝手に磨いてたよね?」
店内の空気が一瞬で凍り、そして次の瞬間、爆笑の渦に変わった。遥と杏奈が目を丸くしてあかりを見つめ、あかりは悪戯っぽく肩をすくめている。
「ちょっとあかり! それ、秘密にしておくって約束したよね!?」
僕は顔を真っ赤にして叫んだが、もう手遅れだった。杏奈はテーブルを叩いて笑い、遥は呆れ顔で僕とあかりを交互に見ている。かつての僕たちが寮で隠し事を共有していたあの頃と、何も変わっていない。
「もう、秋生君らしいね。あかりの全部を飲み込みたいんだもんね」
杏奈が揶揄うように言うと、あかりは少しだけ恥ずかしそうに、でも嬉しそうに下を向いた。
秘密が露呈したことで、僕たちの間にある壁は完全に消滅した。歯ブラシの一件なんて、世間から見れば衛生観念を欠いた異常な行動かもしれない。でも、僕たちにとっては、相手の生活の痕跡を自分の体の一部に重ね合わせるという、言葉にならない愛情の確認作業なのだ。
「もう……あんたたち、本当に救いようがないくらい仲がいいね」
遥がコーヒーを啜りながら、呆れたような、それでいてどこか羨ましそうな声を出した。その言葉を聞いたとき、僕の胸の中で重くのしかかっていた事件の悲しみや、社会に対する怒りが、少しずつ静かな場所へと収まっていくのを感じた。
死刑執行官の孤独や、犯人が迎える冷たい密室の終わり。そうした重い現実を、僕は背負っている。けれど、この喫茶店の小さなテーブルの上には、僕の癖を笑い飛ばし、恥ずかしい秘密を共有してくれる仲間たちがいる。
「秋生君、もう元気になったよね?」
杏奈の優しい問いかけに、僕は深く頷いた。
僕たちは、社会の常識からは外れているかもしれない。他人の口の中を見たり、恋人の歯ブラシを使ったりすることが、どれほど奇妙なことか、自分でも分かっている。それでも、あかりが僕を受け入れ、仲間たちが笑ってくれるこの空間だけは、どんな正義よりも正しいと確信している。
外はもうすっかり夜の帳が降りている。このまま、あかりと夜道を歩いて帰ろう。僕たちの不器用な日常が、今のこの世界に対する、何よりの抵抗なのだから。