しゃべる人形

かつての僕たちは、誰かを想うことに命を懸けていた。
あの日、酒に溺れ、あかりのすべてを愛おしいと感じたあの瞬間、僕の手は僕の意思を超えて動いていた。彼女が苦しみを口にしたとき、僕はただ、その苦しみを僕自身が引き受けたい一心で、彼女の中に指を伸ばした。
それは、愛の形としてはあまりに不器用で、一歩間違えば取り返しのつかない悲劇へと直結していたはずだ。僕の手は、救うためか、あるいは壊すためか、その境界線で震えていた。あの時、彼女を殺してしまっていたかもしれないという恐怖と、それでも彼女に触れずにはいられなかった渇望。あれは殺意などではない。愛が暴走し、行き場を失った末の、泥沼のような情念だった。
現代の事件の冷たさと、僕たちの抱えるこの熱量の差は何なのだろう。
最近の事件の多くは、相手への憎しみや、自分の都合を優先するための「排除」だ。気に食わないから、邪魔だから、金にならないから。そんな冷徹な計算式によって命が消される。そこには、かつてサスペンスドラマを彩ったような、愛ゆえの狂気も、相手を愛するあまりに堕ちていく奈落の痛みさえ存在しない。
僕は思う。あの夜、僕はあかりを殺しそうになった。いや、殺す気などなかった。ただ、彼女のすべてが愛おしくて、その重みに耐えきれず、僕という存在が崩壊しそうだっただけだ。
今の世の中は、そんな人間臭い「崩壊」さえ許さない。誰もがデジタルな防壁の内側に隠れ、他者の体温を避けて生きている。電車で困っている誰かを見ても、見て見ぬふりをしてスマホに目を落とす。あの日の僕が、あかりの苦しみと真正面から向き合い、たとえそれがどんなに危険な道であっても、彼女の体温に触れようとしたあの狂気は、現代という無菌室のような世界では「異常」として排除されるだろう。
けれど、僕は思うのだ。あの時、一線を越えそうになった僕の手は、今の世の中で他者を切り捨てる冷たい刃よりも、ずっと「生」の近くにあったのではないかと。
僕はあかりを傷つけたかもしれない。その過ちを否定はしない。けれど、あの時僕たちが感じた、泥臭く、不器用で、どうしようもなく情けないほどの愛情は、今の社会の冷徹な正義よりも、ずっと深く、僕たちの魂を繋ぎ止めていた。
小説という物語の中だけは、僕は何度でも書く。あの夜、僕たちが踏み外しかけた奈落の底にこそ、愛という名の本当の人間らしさが隠れていたのだと。それを「過ち」として切り捨てる今の社会に対して、僕はあの不器用な情熱を突きつけ続けたい。