今の世の中の常識には、どうしても納得がいかない。弱いものを排除し、困っている人がいても「死んだふり」をして通り過ぎる。そんな無関心が蔓延する社会から、本当の意味での愛や信頼が生まれるはずもない。画面越しの正しさを競い、相手を「排除すべきノイズ」として処理する現代の風潮は、まるで体温を失った冷たい機械のようだ。
世の中に対するこの行き場のない怒りが、僕を小説の執筆へと駆り立てている。
京都アニメーションの事件を思うとき、僕はその空虚さに戦慄する。加害者が法で裁かれ、失われた建物が資金で修復されたからといって、それで何が解決するというのだろう。奪われた命は二度と戻らず、その人が描こうとしていた未来も、その人生の重みも、すべては永遠に失われたままなのだ。物理的な解決や金銭による精算など、この悲劇の深淵を埋めるにはあまりに浅すぎる。
コロナ禍は、その冷たさを決定的に加速させた。他者に触れることを禁じられ、家という物理的な箱の中に閉じ込められた人々は、次第に他者への想像力を失っていった。素敵な実話や、心温まる記憶を積み重ねる余裕さえ奪われ、僕たちはただ自分の殻の中に引きこもるようになった。
だからこそ、僕は物語を書きたい。
現実がどれほど身勝手で、冷酷な排除の論理で動いていようとも、物語という聖域の中だけは、あの泥臭い体温を取り戻したい。フィクションと実話を織り交ぜながら、かつての里山の寮で僕たちが分かち合った、あの不器用で、ひどく人間臭い愛の形を記したいのだ。
猫を隠して守り、先生の転任に子供のように泣きじゃくり、友と背伸びをして都会を歩いたあの頃。それは、現代の常識から見れば滑稽で、効率の悪い日々に過ぎないかもしれない。けれど、あの時の僕たちには、誰かの痛みを自分事として感じ、その重みを抱えて生きるという、人間としての絶対的な誇りがあった。
僕は書き続ける。
この冷え切った社会が「当たり前」として押し付けてくる、その薄っぺらな常識を粉々に砕くために。物語という防波堤を築き、そこに「命を奪うことの取り返しのつかなさ」と「誰かを想うことの痛み」を刻み込んでいく。
読んだ人がどう思うかなど、今の僕には関係ない。ただ、かつての寮のグランドで、僕たちが確かにそこに生きていたという証を、この言葉の連なりの中に封じ込めること。それだけが、今の僕に残された唯一の抵抗なのだ。
世の中に対するこの行き場のない怒りが、僕を小説の執筆へと駆り立てている。
京都アニメーションの事件を思うとき、僕はその空虚さに戦慄する。加害者が法で裁かれ、失われた建物が資金で修復されたからといって、それで何が解決するというのだろう。奪われた命は二度と戻らず、その人が描こうとしていた未来も、その人生の重みも、すべては永遠に失われたままなのだ。物理的な解決や金銭による精算など、この悲劇の深淵を埋めるにはあまりに浅すぎる。
コロナ禍は、その冷たさを決定的に加速させた。他者に触れることを禁じられ、家という物理的な箱の中に閉じ込められた人々は、次第に他者への想像力を失っていった。素敵な実話や、心温まる記憶を積み重ねる余裕さえ奪われ、僕たちはただ自分の殻の中に引きこもるようになった。
だからこそ、僕は物語を書きたい。
現実がどれほど身勝手で、冷酷な排除の論理で動いていようとも、物語という聖域の中だけは、あの泥臭い体温を取り戻したい。フィクションと実話を織り交ぜながら、かつての里山の寮で僕たちが分かち合った、あの不器用で、ひどく人間臭い愛の形を記したいのだ。
猫を隠して守り、先生の転任に子供のように泣きじゃくり、友と背伸びをして都会を歩いたあの頃。それは、現代の常識から見れば滑稽で、効率の悪い日々に過ぎないかもしれない。けれど、あの時の僕たちには、誰かの痛みを自分事として感じ、その重みを抱えて生きるという、人間としての絶対的な誇りがあった。
僕は書き続ける。
この冷え切った社会が「当たり前」として押し付けてくる、その薄っぺらな常識を粉々に砕くために。物語という防波堤を築き、そこに「命を奪うことの取り返しのつかなさ」と「誰かを想うことの痛み」を刻み込んでいく。
読んだ人がどう思うかなど、今の僕には関係ない。ただ、かつての寮のグランドで、僕たちが確かにそこに生きていたという証を、この言葉の連なりの中に封じ込めること。それだけが、今の僕に残された唯一の抵抗なのだ。

