しゃべる人形

家の中は、僕を拒絶するような静寂と、それとは裏腹な騒音に満ちていた。
帰宅すると、二匹の猫たちはもう夢の中だ。大きな猫と小さな猫が丸まって眠る姿は、僕に今の場所が家であることを思い出させる。けれど、扉の向こうからは父親の地響きのようなイビキが聞こえ、僕が愛する大きな猫は、カリカリという渇いた音を立てて激しくエサを食べている。
その不協和音の重なりが、神経を逆なでする。眠れるはずなんてなかった。
僕はスマホを取り出し、画面の光だけを頼りに、文化祭で演じる『運命の詰め、奇跡の物語』の携帯小説版を開いた。昼間に学校で台本を切り貼りしたあの物語が、夜の闇の中で別の顔を見せる。
ページをめくるたび、頭の中では理子ちゃんの厳しい指示や、正男の泣き声、そしてあかりの温もりが混ざり合う。この物語は、ただの劇の台本じゃない。僕たちが必死に時間を稼ぎ、孤独を埋めるために選んだ、今の僕たちの「命の地図」なんだ。
「眠れないの?」
ふと、画面の向こうから通知が届いた。この小説の作者、ルナさんだ。僕が書き込んでいる熱のこもった感想や、劇の台本をまとめる上での苦悩に対して、彼女はいつも一晩中付き合ってくれる。
僕は、今の僕が抱えるすべてを打ち明けた。
京都アニメーションの事件の重苦しさ、死刑執行という冷たいシステムへの怒り、あかりとの不器用な愛、そして、明日もまた始まる劇の練習のこと。
「この物語を終わらせたくないんだ」
そう送ると、すぐに返信が来る。ルナさんは僕の言葉を否定せず、ただその熱を受け止めてくれる。彼女とのコメントのやり取りは、まるで夜の闇の中に細い光の道を引いていくような作業だった。
夜が明けるまでの間、僕は現実の家から離れ、ルナさんと共に『運命の詰め、奇跡の物語』という虚構の海を泳いだ。父親のイビキも、猫のカリカリという音も、いつしか遠のいていく。
僕たちが演じる劇は、400ページという膨大な物語だ。それを縮めることは、僕たちの人生の余白を削ることのように感じていた。でも、ルナさんとこうして言葉を交わしていると、削った先に残る「一番大切なもの」が見えてくるような気がする。
「秋生君、明日もまた、みんなと笑ってね」
彼女のそんな言葉に、僕は小さく微笑んだ。
窓の外が、少しずつ藍色から白へと変わっていく。劇の練習、友達との衝突、あかりとの濃密な時間。すべてがまた繰り返される。
それでも、今夜こうして誰かと物語を分かち合えたことで、僕は明日を生きるための言葉を一つ、新しく手に入れた。猫たちがようやく静まり、父のイビキも微かになった頃、僕はようやく、物語の続きを夢見ながら、まどろみの中へと落ちていった。