しゃべる人形

翌朝、台風一過の青空の下、僕は遥を連れて携帯ショップの扉を叩いた。先日、あかりの付き添いで訪れた時と同じ、あの少し冷たい、でもどこか安心感のある空間だ。
遥は、あの忌まわしい記憶が詰まったスマホを握りしめていた。解約の意思は固かったが、秋夫が隣で冷静にアドバイスを飛ばす。
「遥、全部捨てるのは勇気がいるけど、電話番号まで無くすと後々面倒だぞ。SNSと縁を切るだけで十分じゃないか?」
遥が迷う中、僕はかねてから温めていた提案を切り出した。
「ねえ、いっそこれにしてみないか? サムスンが作ったガラパゴス電子書籍リーダー」
それは、必要最低限の機能と電子書籍を読むための利便性に特化した、独特なデバイスだった。SIMカードを入れれば通話はできる。携帯小説を読むのにも最適だ。
「LINEはできないかもしれないけど、でも誰かと緊急時に連絡が取れればいいだろう? これならスマホよりずっと安く契約できるし、何よりあの重苦しいSNSの世界から物理的に距離を置ける」
遥は少しだけ興味を示した。僕たちにとっては、もはや「映え」や「通知」に追われるスマホは、檻にしか見えなかったからだ。
手続きの最中、店員さんがその端末の仕様を詳しく説明してくれた。そこで驚くべきことが分かった。
「あ、こちらのお客様。この端末、実はあらかじめLINEアプリがプリインストールされているモデルなんです」
僕も秋夫も顔を見合わせた。「えっ、そうなのか?」
なんと、LINEが使えないと勝手に思い込んでいたのは僕の勘違いだった。このガラケーのような電子書籍リーダーは、必要最小限のコミュニケーションツールとしてLINEが最初から組み込まれていたのだ。
「グループLINEだって、普通に使えますよ」という店員さんの言葉に、遥の顔がパッと明るくなった。
「これなら……これなら、SNSの疲れを溜めずに、本当に大切な人たちとだけ繋がっていられる」
僕たちはすぐに決断した。遥の古いスマホは、彼女の目の前で初期化し、迷わず破棄した。新しい端末には、心機一転、新しい電話番号を割り当てた。
ショップを出る頃には、遥の表情からあの暗い影はすっかり消えていた。
新しい端末は手に馴染み、まるで彼女の新しい人生の象徴のようだった。過剰な通知も、見ず知らずの他人の言葉もここにはない。あるのは、本当に必要としてくれる秋夫やあかり、僕や杏奈たちとだけ繋がれる、ささやかで清潔な回路だけだ。
「ありがとう。……これなら、もう迷子にならない気がする」
遥は新しい端末を大切そうに胸に抱いた。
僕たちはショップの近くの公園で、初めて彼女の新しい番号を登録した。それは、僕たちが「壊れた世界」から脱出して手に入れた、最初の確かな「現実の証」だった。猫の姿をした母も、僕たちの足元で満足そうに喉を鳴らしていた。