声の方へと視線を上げる。
 そこには、甚平に身を包んでいる志恩の姿があり、俺に手を差し伸べていた。

 喧嘩とまでは言わないが、つい一時間ほど前に言い合っていたことが頭に浮かぶ。
 猛烈に恥ずかしくなり、俺は志恩が差し出した手のひらを握ることができなかった。
「大丈夫だよ。一人で起き上がれるって」
「分かった分かった」
「つうか志恩。なんで夜中にフラフラしてるんだよ」
「お前にだけは言われたくねえよ!」

 志恩は俺の両腕を強引に引っ張った。
 俺は体勢を崩し、その勢いで志恩の体にもたれかかる。

 無理やり抱き着く形で、志恩の体にしがみついた。

 俺の部屋着と志恩の甚平越しではあったが、彼の心臓の鼓動が耳に流れ込む。
 布越しでもハッキリと分かる、志恩の体温と心臓の鼓動音。
 
 あれから志恩は、ずっと露天風呂に居たのかもしれない。
 そう思ったのは、彼が着ている甚平から、ヒノキの香りと俺の匂いが漂っていたからだ。

 俺を見下ろす志恩と目が合った。
「なあ柚子葉。いつまでくっ付いているつもりだ。お前、わざとやってるだろ」

 志恩の囁き声が耳元で聞こえた。
 シゲシゲと千代子お祖母ちゃんを起こさないために、小さく囁いたのかもしれない。
 
 俺は、数秒、いや、数十秒は抱きついていたのかもしれない。
 そこから俺の脳内は煩悩だらけになった。
 
 け、決してわざとではない。そう、これは不可抗力なのだ。

 抱き着いたのは体勢を崩しただけであって、仕方がなかったことだ。

 お風呂から上がって一時間が経過しても尚、俺はのぼせているのだ。

 そうだ。深夜だから、眠くてふらついただけなのだ。
 
 等々、俺は自身が起こした"抱き着く"という行為に対して、あらゆる言い訳を脳内に駆け巡らせた。

 こちらを覗き込む志恩を睨む。そして大きく叫んだ。
「ぜ、全部お前が悪いんだ!」
「おい、静かにしろよ! 茂爺さんと千代子婆さんが起きるだろ」

 志恩に頭をポンと叩かれる。

 挨拶程度のゲンコツには、力が込められておらず、全く痛く感じなかった。
 だけど、俺は大げさに転げまわる。勿論、志恩の気をひきたいがためだ。
「痛ーい。もう歩けなーい。これじゃあ”パピコ”が食べられないよー」
「ったく、世話が掛かるガキだな」

 慌て始めた志恩の姿が、床中を転がりながらでも目に入った。
 困り果てる彼の姿を面白おかしく思い、指の隙間から、チラチラと目配せをした。
 
 抱きついたのはワザとではないが、目配せをしたのはワザとだ。
 タヌキとまではいかないが、気をひきたいが為に行った狡猾な行為であったと思う。

 他の女から見てしまえば、明らかにあざとい女だと思われるだろう。

 それに気づいてくれた志恩は、俺に背を向け、台所の床に膝を着いた。
「ほら、歩けないんだろ。背負ってやるよ」
「やったー! っとその前に……」
「どうした?」
「あーあー。パピコ奪取作戦を遂行。全チームに告ぐ。冷凍庫に予備のパピコは存在しない。奪取作戦は完了した。オーバー」

 冷凍庫から黄金のパピコを取り出し、トランシーバーのように扱い、部隊長としての任務報告を行う。
 
 まあ言うまでもないが、俺のチームは俺一人だけである。
 迎え撃つ敵も居なければ、攻略すべきダンジョンなども存在しない。

 パピコを口にくわえながら、志恩の背中に飛び込んだ。
 少しだけ「重っ……」などいう志恩の声が聞こえたが、無視を徹底することに決めた。
「ゴーゴー!」
「ゴーゴーって、どこに行けばいいんだよ!」
「うーん。庭園かな?」
「かな? って、そんな適当でいいのかよ!」

 こちらを振り向こうとする志恩の頭を叩き、庭園へと向かわせた。
 十年ぶりの志恩の背中は、十年前と同様に安心感のある大きな背中をしている。
「だって屋敷の中って蒸し暑いじゃん」
「まあ、そりゃそうだが……茂爺さんから聞いたぞ? お前――」
「あー例の陰陽師達の事でしょ。志恩が居るからなんとかなるんじゃない?」
「他力本願かよ!」

 数分、数十分は背負われ続けたのかもしれない。
 それから志恩に背負われながら、庭園の池の中にある園路を進んでいき、俺は中島に建てられた東屋という建造物に入った。

 さすがに十六歳の美少女を背負う事。
 それは、三十八歳を迎える初老の男の体力では、困難を極めたようだ。

 東屋に到着すると同時に、俺は屋内の腰掛椅子に下ろされた。
「あーあーだらしない」
「っはあ、っはぁ」

 手のひらを両膝に乗せ、汗をびっしょりとかいた彼の姿が目に入る。

 全く。失礼な男だ。
 女子高生の体に触れられるだけでも、有り難いはずなのに。

 息も絶え絶えな初老の男性から視線を外し、庭園の池へと視線を移した。

 東屋では倉敷家が管理する回遊式庭園の一部を眺めることができる。
 広大な庭園を回遊するには、東屋という休憩所は必要不可欠であった。

 言うまでもないが、必要なのは俺ではなく志恩の方である。
 中島を囲むように存在していた大きな池からは、池によって冷やされた冷たい風が流れていた。
「行くぞ志恩!」
「はいはい……」

 東屋の中央にて、ヤンキー座りで呼吸を整えている志恩が目に入る。
 俺は平然を装いながら志恩に手を差し伸べた。
「だらしねえな。それでも男かよ」
「お前、ちょっと重くなったか?」
「レディーに体重の話をするなんて、どうかしてるぞ!」
「はいはい……」

 志恩が伸ばした手のひらを握りしめる。
 彼の手のひらの温度が、俺の冷たい手のひらを溶かし始めた。
 
 志恩の手のひらはゴツゴツしている。
 岩と言われれば、岩と間違うかもしれないほどにだ。
 大きくて骨張っており、マメだらけで血管が浮き出ている。

 そんな男性らしい可愛い手のひらが、俺の小さな手のひらを包み込んでいる。

 そう思うと、緊張してソワソワせずにはいられなかった。

 彼を引っ張り、東屋から出ていき園路を歩き続けた。
「なあ志恩。明日、八尾山の薬王院に向かおうと思うんだけど、一緒に行かない?」
「あー八尾山かあ。うーん……」

 彼は僅かに立ち止り、地面を観察するようにしゃがみこんだ。
 苦痛とまではいかないが、険しい表情を浮かべた志恩の顔が目に入る。

 志恩が何を考えているのかは分からない。
 だけど、八尾山に向かうことを恐れているのではないか、と俺は感じた。

 志恩がしゃがんでも、俺は彼の手のひらを離さなかった。
 離してしまえば、十年前に消えてしまったように、また消えてしまうと思ったからだ。

 志恩と視線を合わせようと思い、俺は彼の前に回り、膝を抱えた。
 その時。志恩は起き上がるやいなや、俺の体を両腕で抱き上げた。
「え……え?」
「茂爺さんや千代子婆さん、葉月や俺の仲間たちには黙ってろと言われたけど。俺には無理そうだ」
 志恩は言った。

 突然抱き上げられたことや、お姫様抱っこされたことで俺は困惑した。
「え……おろしてよ志恩」
「なあ柚子葉。お前、俺のことが好きだろ?」

 コイツ。何を言ってやがるんだ。
 そんなの当たり前だろ。

 あれだけアピールしてるのに、いまさら何を言ってやがるんだ。
 馬鹿なのか? 頭が悪いのか? アホなのか?

 等々、俺は脳内で志恩に罵倒を繰り返していたが、現実世界の俺は、そんなに素直ではない。
「し、知ーらない」

 知ーらない。ってなんなんだよ。
 恥ずかしくて、それしか言えないとか、どんだけこじらせてるんだよ。
「まあ嫌いじゃない方だよ」
「ったく、正直じゃねえな」

 俺の瞳をじっと見つめる志恩の姿が目に入る。

 志恩の顔が徐々に近づく。
 十年前に、八尾山の参道で両腕を広げた彼の姿が脳裏に浮かんだ。

 だけど、今の俺はあの時の俺ではない。
 アッパーカットをするつもりもなければ、顔をそむけようとも思っていない。
 だって、俺は志恩が――。
「なあ志恩……」
「目をつぶれ柚子葉」
「分かった。俺、初めてなんだからな……」
「は? 何を勘違いしてるのか分からねえが、よーく見ておけよ!」
 志恩が言った。

 俺は目をつぶっていたが、周囲から耳へと流れ込む風の音に気づき、目を開けた。
 暴風とまではいかないが、志恩と俺を中心として風が渦巻いているのに気づく。
 
 俺はすかさず志恩を目で追った。
 志恩の背中に、薄っすらとした黒い影が出来ているのが目に入った。
「な、なんなの、その翼」
「黙っていて悪かった。掟を破るつもりもなかったし、隠すつもりもなかったんだ。許してくれ柚子葉」

 俺たちを渦巻く風が止んだ途端。
 俺を抱きかかえていた志恩の背中には、何かが生えていた。
 
 いや、何かがではない。
 あれは――(からす)の翼だ。
 
 甚平を諸肌脱ぎする志恩。

 ここからではよく見えない。
 志恩の背中から生えた翼は、通常の人間であれば存在しないはずのものだった。
「意味が分からない。なんなの――その翼」
「黙っていてゴメンな。俺は八尾山の守り神。倉敷家を代々守る、鴉天狗の一族の一人だ」
「え……鴉天狗って、アノ鴉天狗?」
「アノっていうのが、どの鴉天狗かは知らねえが。お前が知ってる鴉天狗と大して変わらねえよ」

 鴉天狗という言葉に対し、俺の体は反射的に震えていた。

 鴉天狗。妖怪。物の怪。
 怪異。守り神。赤鬼。

 等々、十年前の九月二十日から、今日までの十年間に出会った化け物たちが、脳裏に浮かび始める。
 
 志恩は寂しげな表情をしていた。
 なぜなのかは、すぐに理解できた。

 志恩は、俺が妖怪に対して良い思い出がないことを知っている。
 だから、自身が妖怪であることを明かしたことで、嫌われると思っていたのだろう。

 予想していた通り、俺を両腕で抱きかかえていた志恩は、俺を園路に下ろそうとした。
 無論、言うまでもないが、俺は庭園に足を着けず、そのまま志恩を抱きしめ続けた。

 俺の顔を覗き込む志恩。
 彼の瞳が潤んでいるのが視界に入った。
「なんで離れようとするの」
「そりゃあ分かってるだろ」
「言ってくんなきゃ分かんねえよ。それに、分かりたくもねえ」
「ったく、強情な女だな。俺は鴉天狗だ。お前が嫌いな妖怪なんだぞ?」

 志恩が言ってることに間違いはない。
 俺は妖怪が嫌いだ。

 いや、嫌いというわけではない。
 ただ、妖怪という存在に対して恐怖を抱いているだけだ。

 不確かな存在である妖怪や怪異、物の怪という存在。
 それらは俺の幽体化という能力と同様に、浮世離れした存在である。
 
 同族嫌悪とまではいかないが、俺という存在が特別である事を否定するそれらの存在は、憎むべきものであった。

 俺を抱きかかえる彼の腕が、徐々に緩んでいくのが分かった。
 本能に導かれるがままに、俺は彼を抱き寄せた。
「お願い……行かないで」

 声を絞り出したと同時に、彼の唇へと口を押し付けた。

 俺のファーストキスは、志恩に捧げると決めていた。
 だけど、こんな形で唇を重ねるとは思っていなかった。

 緊張や困惑、心配や懸念といった感情が含まれたファーストキス。
 こんなにも味気ないものだとは思いもしなかった。

 俺のファーストキスを受け入れてくれた志恩の姿が目に入る。
 彼の潤んだ瞳を見つめ続けて、小さく呟いた。
「十年も待たせたんだ。責任取って、結婚してくれ」
「はあ……困ったな」

 彼の顔に頬を押し付け、抱きしめ続けた。

 志恩がどんな表情をしているかは分からない。
 どんな事を考えてるかも分からないし、何を思っているのかも分からない。

 知るのが怖い。
 俺の一方的な片思いがどうなるのか。
 それを知るのが怖かった。

 恐る恐る彼の顔を覗き込もうとした。
 その時。庭園の松の木に既視感のある鴉が止まっているのに気づいた。

 慌ただしく翼をバタつかせた鴉は、俺たちの傍に羽を下ろし、鳴き始めた。
「ねえ”ヤタ君”あんた、マジで空気読めないの?」
「おっと、ゴメンな柚子葉。どうやら用事ができたようだ」
 志恩が言った。

 何事もなかったように、彼は俺の体を園路に下ろした。

 志恩はヤタ君の方へと近づき、何かを話し始めた。
 大きな声で「カーッ」と泣き続けるヤタ君に対し、志恩は困り果てた表情を浮かべている。

 ヤタ君との会話の中に、「楢野町」という言葉がボソッと出てきたことで、俺は隣町の楢野町で何かが起きたことに気づいた。
「なあ志恩。もしかして、楢野町行くのか?」
「まあな」

 まあな。ってなんだよ。
 どうして皆、俺に隠し事をするんだよ。

 志恩に嫌われるのが怖い。そう思い、喉まで上がってきた言葉を言い出せず、顔を伏せた。
「それってもしかして、俺の霊魂や葉月兄さんと関係があるのか?」
「どうだろうな。今の段階では分からねえ。だが――これだけは言える」

 呆然と園路に立ち尽くす俺は、志恩に抱きしめられた。
「柚子葉。お前の身は俺が命に代えても守ってやる。それと、お前が高校を卒業出来たら結婚してやるよ」
 頬に顔を寄せ、志恩は言った。

 鴉天狗の翼を羽ばたかせた彼は、夜風に舞いながら大空へと飛び立っていった。