「丁度いいや。隻夜叉はここで待ってて。俺は屋敷の様子を見てくるから」

 そう言って隻夜叉を葉月兄さんの部屋に残し、俺は階段を駆け下りて屋敷の様子を見て回る。

 どうやら雨が降っているようだ。玄関のガラス戸の向こう側から雨音が聴こえる。

 玄関のすぐそばにある階段を駆け下りた直後、真っ黒な着物に身を包んだ女性と目が合った。

 喪服のような着物を着た女性は、安堵したかのように息を漏らしていた。

 貴人に付き従うような侍女を彷彿とさせる、小袖に身を包んだ茶髪の女性。どうやら年齢はそこまで離れていないらしく、彼女の微笑みからは親しみさえ感じられた。

「誰なの貴女。ここは倉敷家の屋敷よ」
「存じておりますよ柚子葉さま」

 親密距離まで迫ってくる茶髪の女。確かに彼女からは親しみを感じられたが、見知らぬ人物に近づかれると恐怖しか感じない。

 恐怖のあまり、俺はシゲシゲや千代子お祖母ちゃんの名前を叫んだ。

「ねえシゲシゲ、千代子お祖母ちゃん! 変な子が屋敷に入ってる!」
「変な子? もしかして柚子葉さま、私の名前をお忘れですか? 私です、飯縄(いいづな)小春(こはる)ですよ!」

 何なんだこの女。妙にイラつく語尾で話しやがる。

 自身を飯縄小春と名乗る同年代の茶髪少女。彼女が俺の手のひらを握った直後、手のひらに電流が流れ込んだ。

 俺の脳内を汚染していくような、知らない記憶。脳の記憶領域を刺激するような電流が流れ込み、俺は我に返った。

 そうだ。彼女の名前は飯縄小春だ。俺は都内の家に居た時、倉敷家の分家である飯縄小春さんと一緒に生活していた。

 中高一貫の女学園に通っていた際、その付き人として侍女の小春さんを同行させていた気がする。

「えっと、ごめん。なんだか最近、物忘れが酷くってさ。一瞬だけ、小春さんの名前が思い出せなかったんだ」
「驚きましたよ柚子葉さま。気でも触れたのかと思いました。それより、本家の方々が柚子葉さまをお待ちしております。部屋に御案内いたしますね」

 小春さんに案内されるがままに廊下を歩き続ける。

 妙な違和感が体中を包みこんでいるが、このまま小春さんの後をついていこう。

 彼女が案内してくれる部屋へと向かう道中、過去の記憶へ戻る前には見なかった光景が目の前にあった。

 閑散とした屋敷の姿がそこにはなく、あったのは俺の異母兄弟や彼らの母親の姿。

「成功したみたいだ」

 安堵の息が自然と漏れ出た。

 どうやら七度返りの宝刀による現実改変は無事に成功したようだ。

 隻夜叉が体験したという、”二つの記憶”が同時に存在するという体験。まさに俺は今、彼が体験した出来事に直面しているのかもしれない。

 どこを見回しても見慣れない人物たちの姿が屋敷にある。

 本来ならば、彼女たちはシゲシゲの意思決定により屋敷を追放された身。

 ここに彼女たちの姿があるのであれば、シゲシゲの勘当事件は無かった事になったのだろう。

「ねえ小春さん。シゲシゲは何処にいるの?」
(しげる)さまは居間の隣で寝ております。本家の方々や親類の皆さま、八童家や旧家の方々も部屋に集まっておりますよ」

 真っ黒な着物に身を包んだ小春さん。喪服を彷彿とさせる姿をしていたのは、彼女だけではなかった。

 葉月兄さんの母親、倉敷(くらしき)明日香(あすか)を始めとする、倉敷家の本家や分家の人間。それだけではなく、楢野葵や狭間蔵之介といった八童子市に存在する旧家の面々が揃っていた。

 居間に辿り着いた瞬間、(ふすま)越しに誰かの泣き声が聴こえてきて自然と胸が締め付けられた。

「ま、待って小春さん。俺、あの部屋には行きたくない――」
「お気持ちは分かります。突然の事でしたし、不運も重なりましたから。ですが、柚子葉さまは、次代の倉敷家の当主候補ですよ」

 既にある記憶を塗り潰すように、新たに流れ込む別の記憶。屋敷の廊下を一歩づつ進むにつれて、俺の脳に新たな記憶が入り込んでいく。

「小春さん。ちょっと待って」

 そう言って居間に入らず廊下で立ち止まった。
 
 小春さんが言いたいことは理解できた。だけど、俺の脳内に存在する二つの記憶が()()()()()を否定し続ける。

「だめ。俺、やっぱり無理」
「柚子葉さまっ――」

 俺は居間に辿り着いた直後、隣の部屋に入らずに縁側から回遊式庭園に逃げ込んだ。

 傘を差して庭園内に佇む訪問者たちを掻き分け、隙間を擦り抜ける。その際、訪問者の体にぶつかったせいなのか、次々と知らない記憶が俺の脳に流れ込んだ。

 濡れた地面を裸足で駆け抜け、誰も居ない場所を求め続けて走り続けた。

「なんで。どうしてなの。俺はちゃんと過去を変えられたはずなのに――」

 常識では考えられないような出来事に驚く。流れ込む新たな記憶を拒絶するように走り続けた。

 声にならないような思いが自然と声として漏れ出た瞬間、何かに躓いて転んだ。

 雨で濡れたタンクトップに泥が着く。泥だらけになりながらも立ち上がり、シゲシゲや志恩と過ごした東屋に駆け込んだ。

 心をかき乱すような雨音が庭園に広がり続ける。

 東屋の壁にもたれかかんで手のひらで両耳を塞ぐが、僅かにできた隙間から雨粒が落ちる音が聴こえ続けた。

 頬の上を流れる雨粒を手で拭い、咄嗟に手のひらに霊力を注ぎ込んだ。

 徐々に手のひらに集まる霊力の粒子。それらは俺の意思を汲み取るように集まり、七度返りの宝刀として具現化した。

「今なら間に合うかもしれない。俺はこんな現実、望んでなんかいない」

 東屋にたどり着いて真っ先にしようとした事は、宝刀の能力を使った過去の記憶への潜行だ。

 彼が亡くなっていることに動揺して、宝刀を握る指先に力が入らなかった。

「ねえ柚子葉。ここに居たのね……」

 聞き覚えのある声の方へと振り向く。そこには、少しだけ老けた金髪の女性の姿があった。

 待ち望んだ現実だというのに、結衣ママに対して恥ずかしくて合わせる顔がなかった。

「ねえお母さん。俺、お母さんを助けるために過去に戻ったの。だけど、現実の世界に戻ったらこんな事になってた」
「分かってるわ。十年前の八月五日、柚子葉は宝刀の能力を使って過去に戻ったのよね?」
「うん。あの日に戻った。結衣ママを助けられたのに、どうしてシゲシゲが……」
「茂お義父様が亡くなったのは、柚子葉が過去を変えたのが原因じゃないわ」

 俺と同じように壁にもたれ掛かる結衣ママ。彼女は俺の体を抱き寄せて一緒に泣いてくれた。

 十年振りの再会だというのに、そんなに離れていた感じが全くしない。多分、俺が記憶の海で過去を変えた事で、現実世界が変わってしまったからなのだろう。

 分かっていた。どうしてシゲシゲが亡くなっていたのかも理解できていた。あの四つ目綴じの和本を受け取ったあの時。宝刀は俺の一番大切な物を、大切な人を理解した上で、記憶の潜行の代価としてシゲシゲの命を奪ったのだろう。

「シゲシゲは元々体調が良くなかった」
「うん。茂お義父様が言ってたわ。『ワシはそう長くない』って」

 シゲシゲの死因を教えてくれた結衣ママ。彼女の話によると、この変化した現実世界のシゲシゲは、八尾山の参道で出逢った山男の攻撃が原因で亡くなってしまったようだ。

 何度でも言う。シゲシゲは元々体調が良くなかった。筋肉モリモリの銀髪変態マッチョメンだとしても、ただの八十五歳を迎えようとしていたお爺ちゃんでしかない。

 ただの人間が、俺のような死人と同等の肉体を持つ人間が、彼を語ってはいけない。彼はいつだって俺を心配していてくれただろうし、真っ赤な血液が体に流れた本当の人間なんだ。そう思いながらも、俺は加速する思考を止められずにいた。

「シゲシゲはいつだって人間だった」

 情けない声が漏れた。

 覚悟はしていた。酒天童子さんが子供の命を救った時、隻夜叉の右腕を代償としたように、俺も過去の出来事を変えた事で何かを失なうとは分かっていた。

 腕の一本や二本で結衣ママの命を救えるなら安いものだと思えたし、それ以外の肉体の一部を失っても構わないとさえ思っていた。

「ねえ結衣ママ。俺の体って、奪い取られる価値もないんだね」
「…………」

 黙り込んだ結衣ママ。正直な話、どんなに綺麗な言葉を並べられても、感情を揺さぶられることはなかったと思う。反応をしてくれるよりも、黙ってくれる方が助かったまでもある。

 覚悟ができていなかった。誰かの命を代償も払わずに救えると思ってたし、そう思えたから突発的に宝刀の改変能力を使って記憶の海に潜行した。

 判断が甘かったのではないかと問われれば、そう認めざるを得ない。命の価値を軽視しているのではないかと言われれば、何て答えたらいいのかさえ思い付かなかった。
 
「柚子葉は忘れちゃってると思うけど、私は昨日の事のように覚えてるわ。この事を知ってるのは私だけだと思うけど……」

 そう言って俺の手のひらを握りしめる結衣ママ。彼女は俺が過去の海に潜行した最後の日の事を語ってくれた。

 八月四日に熱海で起きた花火事件。あの日の夜、結衣ママは俺の様子や自分の異能を介して、俺が過ごした現実の世界を視たらしい。

 触れただけで相手の心を読み解く事ができる能力。彼女が言っていたあの能力は嘘ではなかったようだ。

 自分が何者かの手によって殺される事を知った結衣ママは、朝を迎えた時点で俺の様子が不審と思って警戒していたとのこと。

「次の日の朝。貴女が急に大人しくなったから、私は変だと思ったの。柚子葉が体験したわけじゃないから警戒することしか出来なかったけど、貴女の記憶を読んでなかったら私は死んでいたかもしれないわ」

 八月五日の事を語る結衣ママ。彼女は五日の朝、目覚めた俺の意識が別人物であると”心を読み解く異能”で知り得たらしく、ホテルで言っていた『マリンタウンへ行きたい』というのを急遽変更した。

「そうなんだ。俺がシゲシゲから聞いた話だと、結衣ママは六日に死んじゃうみたいだったんだ。だけど、現実の世界に戻ってきたら、結衣ママの代わりにシゲシゲが死んでた」
「七度返りの宝刀の能力は未知数だわ。何が起きてもおかしくないもの」

 結衣ママは俺の肩に手を回して頭を抱き寄せた。その直後、俺は隻夜叉が言っていた、『得るものと失なうものの重要さと覚悟を持つことだ』という言葉を思い出した。

「お母さん――」
「うん。分かってるわ。今の内にたくさん泣いておきなさい」

 結衣ママの胸に顔を埋めて泣き叫んだ。声にならないぐらい泣き叫んだし、ドン引きするぐらいグチャグチャな顔をしていたかもしれない。

 シゲシゲを失ったけど、結衣ママを救うことができた。

 俺はこの現実を受け入れなければならない。受け入れなければ、シゲシゲの死を無駄にしてしまうと思えたからだ。