黄泉の国にいる鬼の出現条件が解からない以上、記憶の海にいる人物たちに存在を明かしてはならない。
 
「何でもないよ。さっさと挨拶に行こう」

 それから俺と結衣ママは、八童家や楢野家、明神家や狭間家といった倉敷家派の当主たちの元へと向かった。
 
 ホテルに招待された旧家の当主へ挨拶に行こうとするが、各々の当主の周辺警護をする警備員に阻まれた。

 仕方ないことだった。たとえ、旧家の中でも権力のある倉敷家の側室だったとしても、結衣ママはただの妾でしかない。

 一番最後に側室として迎い入れられた結衣ママには、他の旧家の人物に声を掛ける権利さえなかった。

「まあ当り前よね。皆、宴会場に向かったようだし、ちょっと遅れちゃったけど、私達も行こうか」
 
 結衣ママはそう言って、招待客が集まっているだろう和式宴会場へと足を運んだ。

 ○○さんの後を追うように和式宴会場へと入室する俺と結衣ママ。既に殆どの招待客が集まっていたらしく、最後に入室した俺たちは当然ながら注目を浴びた。

 ぞっとするような招待客の視線が突き刺さる。俺と結衣ママが会場に入った直後、呵々大笑していたはずの招待客たちは一斉に静まり返った。

「さてと、私と柚子葉の席は何処かしら……」
 
 俺の震えた手のひらを握り締める結衣ママ。

 彼女に引っ張られながら、戦々恐々とした雰囲気のなか会場を歩き続ける。だけど、結衣ママは彼らに反応することもなく、終始おだやかな笑みを浮かべながら、案内係に案内された席へと座った。

 肝が据わっているどころの話ではない。
 どうして結衣ママは、こんなに恐れおののくような場所で笑みを浮かべられるのだろうか。

 俺には全く分からなかった。本来であれば尻込みしてしまうような場の雰囲気なのに、結衣ママは全く動じていない。それは席に座ってからも同じだった。
 
 会食が始まるまでの数分間。嫌悪感を抱くような視線が俺に、いや、結衣ママに突き刺さり続ける。

 こんなに気味が悪い会食は初めてだ。
 いや、会食だけではない。十六歳になっても普段から人の目を気にする俺だったが、ここまで冷徹で人を蔑むような視線を浴びるのも初めてだった。

 結衣ママが座卓椅子に腰を下ろした直後、結衣ママに向けられていた視線が別の人物へと移っていく。

 一人の年配の女性がその場で立ち上がり、上座に座る人物へと手を伸ばした。

「楢野家の現当主、二十二代目の祓い屋稼業を営んでいる楢野(ならの)正子(まさこ)と申します。本日は私の娘、楢野優月と倉敷葉月様の御結婚を認めて頂き、このような形でお集まってくださり心より感謝申し上げます」

 和式宴会場に集められたのは、今回の旅行を提案した八童家と倉敷家、その両者を支持する楢野家や明神家、狭間家といった人物たち。勿論、それらの本家の人物に限らず、各々の分家に属する者たちも集められた。

 挨拶と思われる口上を述べ終えた楢野正子。彼女は高砂席に座る葉月兄さんと優月さんに手のひらを向けた。

 楢野正子の話によると、今回の旅行は一部の関係者にしか知らされていないものだったらしい。

 彼女曰く、「今回の旅行は楢野家と倉敷家の間に新たな絆が生まれた日でございます。倉敷葉月様を我が楢野家の婿として迎い入れることは、胸を打たれるような思いであった」とのこと。
 
 記憶の海に潜る前、志恩から聞いた話が本当であれば、今日という日は優月さんと葉月兄さんが付き合ってから数年目の記念日であるはず。
 
「ねえ結衣ママ」
「柚子葉、静かにしてなきゃダメよ。八童家の現当主、八童(はちどう)南雲(なぐも)様が話している途中よ」

 俺の顔を鷲掴みする結衣ママ。彼女は強制的に俺の顔を動かし、向かい側の列の上座に座る”袴姿の青年”へと向けた。

 結衣ママが言っている通り、上座に座っていた青年は何かを話している。ここからではよく聞こえないが、優月さんと葉月兄さんに祝いの言葉を述べているらしい。

「進藤樹と申します。このような場にお招きいただき、誠に感謝申し上げます。こちらは私の一人娘、進藤……」
 
 当たり前の出来事のように、次々と招待客が祝いの言葉を並べ始める。

 進藤(しんどう)(いつき)。志恩が庭園の東屋で言っていた人物か。
 彼は確か、楢野優月さんと葉月兄さんの交際に反対していたはず。もしかして、優月さんと葉月兄さんの結婚を受け入れてくれたのか?

 祝言を述べている以上、特に気にすることではないか。
 それから彼は、自分の娘を葉月兄さんと優月さんに紹介し始めた。

 どうやら彼の娘は体調が良くないらしく、車椅子に乗ったまま会釈をした。

 何を考えるでもなく進藤樹の娘を見つめていたが、虚ろな眼差しを向けた彼女と目が合った直後、俺の脳内に電流が走った。
 
 目鼻立ちの整った顔をしていなければ、お昼休みの時間、教室の隅で黙々とお弁当を食べているタイプ。
 実は明るい子なんだよと紹介されれば、誰もがそう思うだろう。大人しくて真面目な子だと言われれば、そう思ってしまうような女の子。

 クラスの中心的な存在でなければ、平穏な学生生活を送るために控えめな行動をとるタイプ。
 目立った特徴もなければ、高校を卒業したら真っ先に記憶から抜け落ちそうな女の子。
 
 
 記憶の片隅にじっとしていて、”ああこんな友達が居たな”と思ってしまうような女子高生。

 
 そんな女子高生の素敵な笑顔を彷彿とさせるものが、車椅子に乗った少女の笑顔からは感じ取れた。
 
 抑えがたい欲求に身を委ね、俺は腰掛椅子から立ち上がる。
 
「ごめんね結衣ママ。気分が悪いから先に部屋へ行ってるね」
「仕方ないわね。貴女を独りにさせたくないわ、結衣ママも一緒に行ってあげる」
「大丈夫だよ。部屋は同じ階にあるし、迷うことはないから」
「そうなのね。なるべく早く戻るわ」

 館内着の袖に忍び込ませた”天狗除けの御守”に指先を当て、賑わう宴会場から出て行った。

 廊下の突き当りには俺と結衣ママの部屋がある。数分ほど歩いた後、俺の気持ちに気づいてくれたのか、隻夜叉が御守を通じて脳内に話しかけてきた。
 
「ねえ隻夜叉。あの会場に居た”女の子”が誰だか分かった?」
「柚子葉童子、お主も気づいていたようだな。あの少女の名前は確か……」
「あの子の名前は、”小泉静香”さん。どうして俺の記憶の中に居るのか分からないけど、一つだけ解ったことがある」
「ふむ。解った事か」
「うん。小泉静香さんは、俺に”嘘”をついている、かもしれない。確証はないんだ。だって、ここは十一年前の記憶の海の中だし、俺たちが”熱海で過ごす”というのも、過去を変えてしまったから起こってる出来事かもしれないから」
「そんなに考える程でもないだろう。ここは所詮、記憶の海の中でしかない。現時点では目立った事件も起こってないのだからな」

 隻夜叉はそう言って天狗除けの御守に戻った。
 桑真学園の高等部に通う三年生。生徒会に所属する小泉さんは、桑真学園の内外を問わず、顔が利くというバイタリティが高い陽キャ女子だ。

 確証なんてない。過去の改変で、”たまたま”小泉さんと出会っただけなのかもしれない。
 
 確かに彼の言う通りだ。俺が今いる世界は”記憶の海の中”でしかない。
 宝刀の能力を介して記憶の海に飛び込んだが、解ったことは記憶の中で負った傷が現実にも反映していることだけだ。
 
「どうしよう。もう一回、現実の世界に戻るべきか?」

 現実世界でハッキリとした改変を目にすれば、確証をもって過去を変えられる。そうすれば、結衣ママの命を救う手掛かりが掴めるかもしれない。
 
「いや、そんな悠長なことは言ってられない」

 二度目の潜伏から戻った直後、隻夜叉は志恩のことを警戒していた。
 彼の話が本当であれば、八童志恩という男は過去の改変を強く否定してくるはず。

 だとしたら、俺は目的を果たすまでは現実の世界には戻れない。戻ったとしても、志恩に邪魔をされるだけだ。
 
「チャンスは一度きり。次の潜伏は期待できない。黄泉の国から訪れるという鬼に狙われていない今、そう今しかチャンスはないんだ」

 ブツブツと独り言を呟きながら部屋へと戻る。自室の扉を開いた直後、部屋に響いた爆音が俺の体を突き抜けた。
 どうやら爆音の発生源は外から来ているものだったらしく、俺は正体が気になりベランダへ駆け込んだ。

「ほら、花火が始まったみたいよ」
 
 隣のベランダから女性の声が聞こえる。

 次々と打ち上げられる花火玉。夜空を彩るように閃光を散りばめる打ち上げ花火。
 桃色の柳や黄色い牡丹を彷彿とさせる打ち上げ花火が、目と鼻の先の距離で光を描き続ける。

 多分、この花火は何十年も前から、観る者を魅了させていたのだろう。
 決して平等とまでは言えないが、観る者の全ては偏りを感じさせない程の美しさに心が躍るのかもしれない。
 
 こんなに近い距離で花火を見るのは、生まれて初めてだった。
 
「凄い。こんなに近くで花火が見られるなんて――」
「柚子葉、綺麗な打ち上げ花火ね。少しは体調が良くなった?」

 後ろを振り返ると、俺のすぐ後ろに結衣ママの姿があった。誰であったとしても、背後を取られるのは良い気分ではない。

 どうやら会食は終わったらしく、結衣ママは志恩や志恩のガールフレンド、葉月兄さんや優月さんといった人物たちを部屋に招いたようだ。

「ねえ柚子葉。実は、この部屋って皐月と私が何年も前に泊まった部屋なんだ。多分、皐月はそのことを覚えていてくれて、私たちのために部屋を選んでくれたんだと思うの。花火が近いから火薬の匂いもするけど、眺めは最高なのよ?」
 
 結衣ママはそう言って俺の手のひらを握る。

 
 初めて聞いた話だった。


 同じ家に住んでいたというのに、皐月は置手紙やスマホのメッセージでしか会話をしたことが無い。
 皐月の行動や言動は、いつだって父性の欠片さえ感じさせない物ばかりだった。あんなに不器用な男がそんな気遣いを出来るのだろうか。
 
 結衣ママの潤んだ瞳に映り込む花火を見つめる。
 
「ねえ結衣ママ。それって本当のことなの?」
「何よ柚子葉。私を疑ってるの?」

 手摺りを握り、何度か飛び跳ねた結衣ママ。彼女はどんな時でも子供っぽさが抜けきらない動きをしていた。
 
「うん。だって俺が知ってる皐月は……」
「ストップ。その先を――ったら、また鬼が出て――」

 何かを言ったようだが、打ち上げ花火の爆発音が彼女の声をかき消した。
 
「ねえ聴こえない!」
「ああ、もう。何でもないわよ。それより、何だか煙が濃くなってない?」

 打ち上げ花火により放出された煙。どうやら風向きが悪かったらしく、俺たちがいるホテルにまで煙が漂っていた。
 燃焼された火薬の匂いが風に乗って熱海中を包みこむ。

「ごめん柚子葉。お母さん、ちょっと気分が悪いみたい……」
 
 何度か咳き込んだ後、結衣ママは部屋に置かれたベッドへと向かったが、辿り着くことなく膝から崩れ落ちた。