「あれ、何かがおかしい。どうして俺は――優月さんの事を知ってるの?」
「なに黙ってんだよ。そんなに俺の好きな所が多いのか?」
 志恩は膝に肘を置き、俺の方をじっと見つめていた。

 欠落した記憶を補うように、”俺が知らない記憶”が脳内に流れ込んできた。

 俺が志恩を好きな理由。
 それは俺が園児だった頃、志恩や葉月兄さん、優月さんや明神冬夜さんといった大人たちに囲まれていた時の事だったと思う。

 見る物の全てが大きく感じ、見たことのない物に興味を抱き、何もかもに魅了された多感な時期。

 複雑な家庭環境に生まれ、俺という存在を忌み子として扱っていた父、倉敷皐月が同じ家に居た時の話。
 当然ながら、皐月と愛人の間に誕生した俺は、倉敷家に関係する多くの人物から”望まれない子”として忌み嫌われていた。

 正妻としてではなく、妾として迎えられた母に連れられ、倉敷皐月が囲んでいた多くの妾と一緒に、俺は倉敷家の屋敷に住むことを許可された。

 何かしらの理由があるのだろうが、俺と実母が選ばれた理由は俺には解らない。実母が教えてくれなかった以上、語るに及ばない物語であるのには違いない。

 勿論、倉敷皐月と愛人の間に生まれたという事もあり、俺の家庭環境は複雑……いや、ほとんど初めから崩壊していたと言っても過言ではない。
 
 屋敷内には多くの部屋が存在していたが、俺と俺の実母が当時の倉敷家当主から住むことを許可されたのは、露天風呂のある離れ座敷の一室だった。

 身内からだけでもなく、河口町の町民からも避けられた。母と俺を気に掛けていたのは、シゲシゲと千代子お祖母ちゃん、葉月兄さんぐらいだった。

 腹違いの兄妹は多く存在していたが、親しい関係と言えるような人物は存在せず、家族や友達と呼べる人物も身近にはいない。

 幼稚園に通えども、園児たちは皆、俺の髪の毛を見るや否や、近づくのを恐れていた。

 勿論、今となっては彼らが恐れていた理由も理解できる。
 自身の日常を脅かすような存在が突然と現れたのだ。その園児が金髪の幼女で洋人形のような姿形をしているのだから、腫れ物扱いをするのが当然である。

 テレビや漫画、アニメやネットでしか拝めないような髪色、腰まで伸びた俺の金髪は、周囲の園児を遠ざけるのに容易なものだった。

 周囲の園児とは異なった髪色を持つ園児。彼らの目に、俺の姿はどう写っていたのだろうか。そんなことは考えるまでもなかった。

 外界から訪れた人間を嫌う町民たち。
 自分たちのテリトリーやコミュニティーを侵し、勝手に踏み入れてきたのだから、関わってはいけない存在だと判断したに違いない。

 幼稚園に入園してから僅か数日、俺という存在は直ぐに透明人間と化した。

 居ても居なくても変わらないような存在。誰もが俺という存在を忌み嫌い、関わるだけで面倒な事が起きるだろうと思った。

 俺の声は園児たちの耳には届かず、俺が『一緒に遊ぼう』と言っても、誰も返答してくれなかった。いや、返答はしただろうが、その多くは、『今度ね』といった言葉や『今はダメ』といった言葉だったと思う。

 だとしても、俺は誰かを責めようとは思わなかった。
 責めようとしなかった理由。それは、自分が透明人間という”特別な存在”だと思っていたからだ。

 見えていたとしても、誰からも視えない存在。
 球遊びや人形遊びに混じったとしても、俺と言う存在は周囲の園児から認知されず、特別であり続けた。

「柚子葉、今日の幼稚園は楽しかった?」
 車を運転する母。彼女は後部座席へ座る俺に向かって言った。勿論、俺の身を案じたのは葉月兄さんの母ではなく、俺の実母だ。

 この時、俺は園児であったのにもかかわらず、母を心配させては不味いと思い必死になった。
 
 もしも母に俺の境遇を知られてしまえば、自分という特別な存在が特別ではなくなると思ったからだ。
「うん。今日は〇〇ちゃんと人形遊び、お昼寝は〇〇くんの隣で寝てたよ。おやつの時間は一人だったけど、それ以外は誰かと一緒だった!」
「そうなのね。ねえ柚子葉、今日は何処で御飯を食べたい?」
「外食? それなら、葉月お兄ちゃんが好きなお寿司屋さんに行きたい!」
「分かったわ。葉月さん、いつもの場所で構わない?」

 俺は隣に座る葉月兄さんへと視線を送る。
 兄さんは俺の頭をポンポンと叩き、『柚子葉、ワイの好きなところじゃなくてええよ。本当は何処に行きたいんや?』と言った。

 葉月兄さんの言葉。正直な話、この時の俺は何て答えるのが正しいのか解らなかった。

 自分が好きな食べ物。自分が行きたいところ。

 誰かが好きな食べ物じゃなくて、自分の好きな物でなければいけない事。

 色々考えはしたが、当時の俺は何も浮かばなかった。
 今になってみれば、俺の行動や言動は無気味なほどに無欲に徹していたと思う。

 この頃の俺は誰が相手だったとしても、その人が俺を嫌っていたとしても、その人が喜ぶような態度をとり、自分の気持ちや感情を押し殺してまでも気に入られようとしていた。

 それは多分、自分が特別な存在だと思いながらも、その思いを否定したい気持ちが心の何処かにあったからなのだろう。

 誰かに存在を知っていて欲しい。
 自分という透明な存在を記憶の片隅にでも置いておいて欲しい。

 それを続けることによって、たまたま偶然に知り合った人物が俺を救ってくれると思っていた。

 それから数週間が経ち、幼稚園での透明人間扱いに慣れ切った頃。
 幼稚園が休園の日、いつものように離れ座敷の一室で息を潜めるように大人しくしていた時、離れ座敷内にインターホンの音が響き渡った。

「おーい葉月! 迎えに来てやったぞ!」
 何度もインターホンを鳴らす誰か。葉月兄さんを”次代当主”と呼ばないところをみると、倉敷家の身内の人物ではないのだろう。

 鳴り止まないチャイムに腹が立ち、俺は二階から階段を駆け下り玄関へと向かった。

 下の階には誰も住んでいない。あるのは屋外に設置された露天風呂だけ。
 
 バタバタと足を鳴らしながら階段を駆け下り、衝突してしまうような速さで玄関へと突撃。
「さっきからチャイムを連打するな馬鹿野郎!」
「誰だよお前。ああ、もしかして葉月が言っていた新しい妹か?」
「あら、綺麗な色の金髪。貴女が柚子葉ちゃんね。私は楢野優月、もしかすると私の姪っ子と同年代なのかな?」

 自身を楢野優月と名乗る成人女性。その隣には、焦げ茶色の甚平に身を包み、サングラスを掛けた成人男性が佇んでいた。

 これが俺と八童志恩、楢野優月さんとのファーストコンタクトだった。

 佇まいや年齢をみるからに、彼らが葉月兄さんと同年代の人物であり、兄さんの知り合いであることは容易に判断できた。

 玄関先でしゃがんだ志恩。
 ヤンキーを彷彿とさせるような成人男性の姿を恐れてしまい、俺は声を震わせながら彼を睨みつけた。
「あ、ああ、あの、貴方たちは誰なんですが?」
「俺の名前は八童志恩。年齢は二十七歳、彼女と呼べる女が沢山いるモテモテのチャラ男だ。お前は倉敷皐月が新しく迎えた妾の子供だろ? 葉月から”色々”と話は聞いてるぜ、お前、幼稚園で”虐められてる”んだろ?」

 サングラスを額に乗せ、こちらをじっと見つめる志恩。
 同情めいた気持ちではなく、彼の瞳からは何かを決意したようなものを感じ取れた。

 彼が差し伸べてきた手を弾き返す。
「い、虐められてない――無視もされてない。俺がアイツらを無視してるだけ……」
「可愛げのねえガキだな。正直に言ってくれれば何時でも力になってやるよ。まあ相談事があったら言ってくれ。それと柚子葉、屋敷の方には葉月が居なかったんだが、こっちの離れ座敷に葉月は居るか?」
「多分、居ると思う。ここで待ってろ、それとチャラ男。屋敷に入ったら警察を呼ぶからな!」
「ハイハイ、警察には友達がわんさか居るんだ。来たとしても、俺の知り合いしか来ねーよ」

 シッシと手のひらを扇ぐ志恩。正直な話、八童志恩という人物の第一印象は、”女好きのチャラ男で権力という暴力を余すことなく使い果たす最低男”だと思わせるうな様をしていた。

 そう思ったのも仕方がない話だ。
 志恩の背後には複数の女性たちの姿。恐らく、彼の話が本当であるのなら、女性たちは彼が囲んでいるという”彼女”であるのだろう。

 それから俺は離れ座敷内を走り回り、葉月兄さんを引き連れて玄関に戻った。
「おいチャラ男。葉月兄ちゃんを連れてきたぞ。それと、お前がお兄ちゃんに貸してたっていう、『ボイン戦隊・金髪レッド~寝取られ編~』っていうエロ本も持ってきてやったぞ」

 葉月兄さんから奪い取ったエロ本を志恩に差し出す。
 今だから思えることだが、この時の志恩の愕然とした表情は酷く滑稽だった。

「なあ葉月、”俺の宝物”を奪われるなんて、セキュリティーがガバガバすぎるんじゃあねえのか? まあいいや、俺の女とお前の彼女、ついでに冬夜も連れてきたんだが、これから江の島にでも行かねえか?」
 俺からエロ本を奪い取り、彼は甚平の中に本をしまい込んだ。

 時刻は正午を過ぎた頃。夏の蒸し暑さが頂点に達した時だった気がする。

「そうか。優月も行くんだな。一緒に行ってもいいが、条件は”夜の十二時を過ぎるまでに帰宅する”ことだ。それでも構わないか?」
 志恩と優月さんを睨みつける葉月兄さん。彼は俺の頭に手のひらを乗せ、ポンポンと叩いた。

「ハイハイ、んなことぐらい承知の上よ。優月の呪いの進行を抑える液体も持参してるんだ。朝方に帰ったとしても、何の問題も起こらねえよ。それに、この前の評議会での処遇は”先延ばし”だっただろ?」
 志恩は葉月兄さんに耳打ちしていたつもりだったようだが、丸聞こえだった。

 志恩から”優月さんの呪い”と”忌具”について訊いた今なら理解できる。この時、志恩が葉月兄さんに話していたのは、優月さんが当主として相応しいのか、という評議会での話だ。

 この日の記憶。どうして忘れていたのだろう。
 もしかすると、俺が思い出せないだけであって、この日に何かが起きてしまったのだろうか。

 東屋でのセカンドキスから一転、俺は十年以上前の記憶を思い出すのに必死になり、ただただ呆然と立ち尽くした。
「ねえ志恩、忌具と楢野優月さんの話だけど……」
「ああ、解ってる。さっさと続きを話せって事だろ?」
「いや、違う。話さなくていい。じゃないや、その話は今度聞く事にする。それより、昔の話を思い出したんだけど、詳しく思い出せないんだ」
「どれぐらい前の話だ?」

 欠落した記憶を思い出す為に東屋内を動き回る。
 指先で唇をなぞり、額にシワを寄せた。

 頭の中に浮かび上がる記憶を探るが、答えが出ないまま時間だけが過ぎて行った。
「多分、俺が志恩と初めて会った日のことだと思う」
「ってことは十年以上前の話か……」

 東屋の柵にもたれ掛かり、甚平の袖から何かを取り出した志恩。
 彼の腕を辿り、指先に目を凝らしてみると、そこには彼の指に挟まれた一本の煙草があった。
「え、志恩って煙草吸うの?」
「十年前に禁煙したっきりだ。この煙草は昨日、近くのコンビニで買ってきたやつだよ」

 嘆かわしい話だ。
 猫屋敷宗一郎に続き、志恩も喫煙者だったのか。
 
 髪の毛や甚平から煙草の匂いがしないところをみると、十年前に禁煙したのは嘘ではないのかもしれない。

「それで、話しっつうのは何の事だ?」
 煙草を咥えた志恩。彼は何らかの妖術を使ったらしく、指先に小さな火の玉を作った。

 東屋内に煙草の煙が漂い始める。
「うん。さっき志恩が話してた話で違和感を感じたんだ」
「違和感か……何に違和感を感じたんだ?」

 燻るような小さな違和感。
 これといった確証はないが、志恩の昔話と俺の記憶にズレが生じているのは確かだった。

 思い込みや勘違いで起こるようなズレではなく、確かに存在する確固たるズレと違和感。
 欠落した記憶を補うようにズレたそれらは、志恩とのセカンドキスによって生まれたものなのかもしれない。

 とち狂った考えだが、志恩との蕩けるようなセカンドキスが記憶を呼び覚ませたのだと思った。この十数分内の行動はそれぐらいだ。

 そんなあり得ない話、まったくもって現実的ではないし信じるに値しない。

 しかし、キスの相手は志恩だ。
 妖怪や怪異、化け物や霊的存在が現実に存在する以上、それが”ただのキス”であったとしても、何らかの作用をもたらすのもあり得ると思う。

 等と考えながら、志恩の瞳を見つめた。
「ねえ志恩……もう一回だけキスしたい」
「ダメだ……」

 隙をついて抱きついたつもりだったが、易々と頭を押さえつけられた。