「キミは、僕たち楢野家が管轄する領域を侵した」
 淡々とした口調と女性のような声色。頬まで伸びた髪を搔きわける女性のような仕草。
 楢野葵はそう言いながら化け物に近づき、ポケットから四色ボールペンのような物体を取り出した。
 
 楢野(ならの)(あおい)という名前。

 何年も前、八童子市にまつわる旧家について調べたことがある。
 八童子市には十数以上の旧家が存在しており、そのどれもが武芸や芸能に長けた家柄だ。
 
 怨霊を使役する霊媒師の大和田家。傀儡人形を操り、日本各地で人形劇を披露する狭間家。八童子市における”八童子祭り”の開催を任されている三崎家。

 等々、八童子市には多くの芸能を受け継ぐ旧家が存在している。
 けれども、楢野家に至っては祓い屋を生業としている事もあってか、他の旧家よりも異彩を放つ存在だと噂されていた。

「倉敷柚子葉、キミが左手に持っている刀は”七度返りの妖刀”か?」
 ボールペンをカチカチとノックする楢野葵。

 何処から情報が漏れたのかは分からないが、目の前の男子生徒は倉敷家が代々受け継ぐ”七度返りの宝刀”の存在を知っていたようだ。
 
 化け物に馬乗りする楢野葵。直後、彼はボールペンの先端を化け物に当てた。
 彼は何らかの術式を発動したらしく、赤の芯に切り替えられたボールペンは、化け物の体を霊力の粒子へと変化させた。
 
「僕の霊術は四色ボールペンを媒介にして発動する術式。色によって効果は異なるけど、今回使用した赤色の芯は相手の体内に霊力を注ぎ込む技だと思っていいよ」
 化け物の傍に佇む楢野。それから彼は訊いてもないのに、自分の術式について話し始めた。

 四色ボールペンには霊術が施されているらしく、赤や青、緑や黒といった芯に切り替えることで、様々な効果の霊術を発動できるらしい。
 赤の芯は相手の体内に自身の霊力を注ぎ込む能力。青の芯はボールペン全体に霊力を帯びさせる能力。緑の芯に切り替えると、自身を中心とす半径数メートル以内に簡易的結界を張れる事。

 その中でも黒の芯には、特殊な霊術が付与されているらしく、滅多に切り替えるのは無いという事。

 饒舌なまでに能力を語る楢野葵。彼は安堵のような笑みを浮かべながら、俺の方へと徐々に距離を詰めてきた。

 彼が言っている事の全てが真実かどうかは分からないが、自らの能力をひけらかす人間に善人など居るわけがない。
 
 カチカチとペンを切り替えながら距離を詰めてくる楢野に対し、俺は摺り足で後ろに下がった。
「さっきの貴方の質問だけど、この刀は妖刀じゃなくて”宝刀”よ」
「そんな事はどうでもいい。どうして、旧家の嫡子でもないキミが宝刀を持っているんだ?」
「この宝刀は倉敷家の物なのよ。他人の家の事情に突っ込まないで頂戴」
「確かに”今”宝刀を管理するのは倉敷家だね」

 こちらにボールペンの先端を向ける楢野葵。
 何らかの霊術が込められているとはいえど、彼が持っているのはただのボールペンだ。

 それなのにも関わらず、”この場から逃げなければならない”という思いが俺の恐怖心を煽った。
「分かったわ。貴方たちが管轄する町内で霊を祓ったのは悪かったと思う。だけど、貴方が直ぐに駆け付けなければ、化け物は他の人間を襲っていたのかもしれないのよ?」
「まあ……確かにそうだな」
「楢野葵。貴方が見逃してくれるなら、今日の事は誰にも言わないわ」
「”言わない?”そんなことはどうでもいい。キミが行った祓い行為は――重大な協定違反に変わりはない」

 ダメか。何とかヘイトを逸らせれば良かったが、上手くはいかなかったようだ。

 彼は何らかの霊術を発動したらしく、自身と俺を囲うように結界を張った。この場から俺が逃げるのを知っていたからなのだろう。
 恐らく、先ほど説明された内容が真実であれば、彼はボールペンの芯を緑に変化させたのに違いない。

 逃げ場を排除したという事は、彼は俺を殺そうとしているのか、何らかの方法で無力化しようとしているのだろう。
 しかし、前述した通り、楢野が武器にしているのは、ただの四色ボールペンだ。

 錆びだらけの宝刀ではあるが、リーチの長さは俺の方が有利に変わりはない。手のひらに収まる長さしかないボールペン程度に何が出来るだろうか。
 
 等と考えながら、宝刀を左手に持ち替え、片膝を地面に落とした。
 無論、化け物を祓った際に使用した抜刀術を行うためだ。

 楢野の目的が分からない以上、襲い掛かってくる敵が同年代の男子生徒だとしても、自分を守るためには戦わなければならない。
 鞘に収められた状態の宝刀であれば、戦闘不能まで追いつめられるだろう。
 
「楢野流霊縛術、壱の刃”赤突(せきとつ)”」
 ペン先をこちらに向ける楢野。彼はそう言ったかと思えば、持っていたボールペンを日本刀へと変化させた。

 二尺三寸はあるだろう打ち刀を手にした楢野葵。多分、彼がボールペンを日本刀に変化させられたのは、霊縛術の一種を発動したからなのだろう。
 彼が先ほど溢していた笑みには、この理由が込められていたのか。

 小太刀程度の長さしかない宝刀に対し、それを遥かに上回る楢野の打ち刀。
 リーチの差が逆転した事や、宝刀を鞘から引き抜けない事。それに対して、刃を剝き出しにした打ち刀を持つ楢野葵。

 恐らく、彼が最初から余裕そうな態度と口調をしていたのは、リーチの差を埋める手段があったからに違いない。
 それから彼は躊躇することもなく、持っていた日本刀を振り下ろした。

「その”七度返りの妖刀”を置いていけば、見逃してやる。キミが行った協定違反も見なかったことにしてあげるよ」
 刀を振り下ろした楢野葵。

 ギリギリではあったが、俺は彼の刃を宝刀で受け止めることができた。
「楢野葵。貴方の目的は”宝刀”なのね」
「まあね。キミが持っている”妖刀”は、持つ者に不幸を与え、周囲の人物に幸福を与える”忌み物”だ。怪段程度の霊魂しか持たないキミに扱える代物じゃない」

 握り締めた柄に霊縛術を付与した直後、俺は宝刀の鞘に赤い膜を帯びさせて楢野の日本刀を弾き返した。
 
「まさか、庶子のキミが霊縛術を使えるとはね」
 楢野は俺が霊縛術を使えると知っていなかったのか、唖然とした表情を浮かべた。
 
 宝刀を妖刀と言い続ける楢野葵。彼は宝刀の事を”忌み物”と言っていたが、それは本当の事なのだろうか。
 
 持つ者に不幸を与えるのも初めて聞いたし、周囲の人物に幸福をもたらすのも初耳だ。
 シゲシゲや千代子お祖母ちゃん、志恩や隻夜叉もそんなことは言ってなかった気がする。
「たとえ、この刀が”忌み物”だったとしても、俺は刀に選ばれた。貴方がどれほど刀を必要としているとしても、簡単には譲ってあげられないわ」
「その通りであるぞ、柚子葉童子!」
 
 楢野葵が張り巡らせた結界内に何者かの声が響き渡る。
 その直後、俺の後方に張られていた結界が何者かの拳によって破壊された。

 聞き覚えのある声の方へと振り向き、声の主の傍へと駆け寄る。
 崩れゆく結界の先に居たのは、『私は最強』という文字が描かれたティーシャツに身を包んだ隻夜叉の姿だった。
「隻夜叉、どうしてここにいるの⁉」
「お主が持っていた”鬼除けの護符”と余が持っている護符が共鳴したのでな。面倒事に巻き込まれてるのだと思い、馳せ参じたのじゃ」

 砕け散った結界の破片を握り締める隻夜叉。
 彼の話によると、俺が持っている”鬼除けの護符”には、一種の防犯ブザーやお守り機能といった力が付与されているらしい。
 もしかすると、俺が化け物と戦った際に護符を捨てた時点で、何らかの信号を隻夜叉の護符へと送ったようだ。

「それで、その小童との戦いが長引いたせいで、屋敷に戻るのが遅くなったと言うのだな?」
「まあ。そんな感じ――てか、人前だから恥ずかしいんだけど」
 自身の握力だけで結界の破片を砂状に変化させた隻夜叉。その直後、彼は深く息を吸い込み、砂を吹き払ったかと思えば、俺の体を背後から抱きしめた。

 腹部に当てていた指先が徐々に胸の方へと上がっていき、首筋を伝っていった指先は俺の顎を捕らえた。
「辞めてよ隻夜叉。今ってそういう時間じゃないし――楢野が見てるから……」
「楢野家の者か。そこの祓い屋、八童志恩から伝言を受け取っておる。『柚子葉が行った祓い行為は確かに協定違反だ。お前が七度返りの宝刀を手に入れたい理由は理解できる。お前の姉、楢野(ならの)優月(ゆうげつ)に降りかかった呪いの件だが、解呪の方法が見つかった』とのことだ」

 こちらを凝視する楢野葵。
 志恩から預かった伝言に何かを思ったのか、彼は持っていた日本刀をボールペンへと変化させた。

「”解呪の方法”か。詳しく話を訊く必要がありそうだね。倉敷柚子葉、キミが行った協定違反は、八童志恩の顔を立てて見逃してあげるよ」
 そう言った楢野葵は、持っていたボールペンを俺の方に向けるや否や、暗闇に紛れて何処かへ向かっていった。

 楢野葵が去った途端、点滅していたはずの街灯が元に戻った。
 先程までに感じた憎悪の霊力が嘘のように消え去り、ただの日常だけが歩道に残された。
 
 化け物と戦うという浮世離れした現実が去った直後、俺の顎に手を添えた人物を横目で見る。
「なあ隻夜叉。顔が近いんだけど……」
「近くて何が悪い。この場に鴉天狗が居ない以上、お主の唇は余の物であるのだぞ?」
 
 隻夜叉の唇が数センチ先まで近づく。
 唇をギュッと結び、胸に湧き上がる拒絶といった感情を振り払い、彼の唇を受け入れようとした。

「えっと――柚子葉ちゃん?」
 もうすぐで唇が重なろうとした直後、前方から誰かの声が聞こえた。

 街灯に照らされた歩道を凝視してみると、そこには制服姿の小泉さんの姿。
「あれ、なんでこんな所にいるの?」
「いや、柚子葉ちゃんこそ何してるの? 私、宗一郎さんから『柚子葉さんが迎えに来る』って連絡が来たからずっと待ってたんだけど――」

 ああ、宗一郎が連絡を入れてたんだ。

 歩道の脇に置かれた学生鞄を拾い上げ、持っていた宝刀を鞄に入れる。
 代わりに鞄からスマホを取り出してみると、複数の着信とメッセージが届いていたようだ。
「あー迎えに行けなくてごめんね」
「別に気にしてないけど――こんな所で独りで何してたの?」
「え、独りじゃないよ。あっもしかして、隻夜叉が見えてないの?」
「えっと、見えてないかな。もしかして、柚子葉ちゃんの隣に鬼の妖怪がいるの?」

 どうやら小泉さんは、隻夜叉の姿が見えてないようだ。
 実体を持った妖怪であるとしても、隻夜叉は忌段の妖怪。それに対して小泉さんは一般の人間なのだ。

 霊的存在達と縁がない彼女に隻夜叉が見えないのは、至極当然の事なのだろう。
「まあいいや。だいぶ宗一郎を待たせているようだし、お店に向かおうか」
「うん。今日は沢山働いたから、お腹がペコペコだよ」

 背後に佇む隻夜叉の方へと振り向いたが、そこには彼の姿が無かった。
 恐らく、俺の周囲に化け物や楢野葵が居ないのを思って、独りで屋敷に戻ったのだろう。
 
――――

 楢野葵との戦いから三日が経ち、暦は九月を迎えた。
 数日後に行われる始業式を控えたある朝、俺は葉月兄さんの部屋に入ってきた志恩を睨みつけた。
「ノックもしないで入ってくるなんて、本当にありえないんだけど」
「本当にスマン! 着替え中だとは思わなかったんだ!」
 
 勢いよく部屋の扉を閉めた志恩。彼は相手が婚約者だというのにも関わらず、自分の立場をあまり理解していないようだ。
 
 別に下着姿だろうと裸だろうと、相手が志恩であれば気にすることは無い。
 数週間前、風呂場で婚約者だと明言された今、志恩という存在は彼氏と同然なのだから。

「なあ柚子葉。お前、隻夜叉に助けてもらったんだってな?」
 扉越しに志恩が言った。

 下着姿から桑真高校指定の制服に着替え、俺は扉に近づいた。
「うん。隻夜叉が言うには、俺が戦った化け物は怪段級の化け物だったようだし、心配するようなことでもないよ」
「ああ、そうか。隻夜叉から聞いたんだが、あの夜、楢野(ならの)(あおい)と出くわしたんだって?」

 志恩は扉に寄りかかっていたようだ。
 俺が勢いよく扉を引いたせいなのか、彼はもたれ掛かるように俺の胸へと倒れてきた。
「あっぶな。ああ、楢野家の人の事だよね。うん、化け物を祓った後に現れたよ」
「悪いな。そんで、楢野葵の事だけど、お前の目にはどう見えた?」

 志恩を膝枕する体勢のまま、俺は彼の両頬に手を添え、あの日の夜の事を思い出した。

 彼が言った『楢野葵がどう見えたか?』という質問。
 どう答えるのが正しい選択なのかは分からないが、楢野葵の第一印象は”良い人間”だとは思えなかった。
 
 化け物では無いにしろ、彼は夜道で襲い掛かってきた人間だった。
 霊的存在達なら襲い掛かってくる理由が分るが、相手が生きた人間だったというのは初めてだ。
「分かんない。楢野葵は倉敷家の”宝刀”を”妖刀”と言ってたし、宝刀を奪おうとしてきた」
「宝刀を妖刀か。あのガキ、未だに宝刀を狙ってやがるんだな」
「『未だに狙ってる』って、志恩が消える前にも狙ってたって事なの?」
「まあ、そういうことだ。ほら、隻夜叉を通して”伝言”を伝えた事は覚えてるか?」

 伝言。確かにあの夜、楢野葵が立ち去ったのは、志恩から伝言を伝えられたからだ。
 あの伝言が無ければ、隻夜叉と俺は楢野葵と戦っていたかもしれない。それに、隻夜叉があの場に現れなければ、俺は楢野葵に負けていただろう。
「隻夜叉が言っていた伝言だけどさ、『楢野(ならの)優月(ゆうげつ)さんに降りかかった”呪い”』ってどういうことなの?」
「あーそのことは説明しなきゃ分からないだろうな。楢野優月、あの女は楢野葵の実の姉だ。優月は――」

 志恩の髪を引っ張っり、引っこ抜いたり。髪に紛れ込んだ白髪を弄りまわす。
 それから俺は、楢野優月さんの身に降りかかった”呪い”について訊かされた。