倉敷家の屋敷に到着してから一時間ほどの時間が経過。

 畳の上に寝転びながらペンを握り、今日の観察日記を書き込む。
 縁側に置かれた扇風機の風が顔に当たり、頬に垂れた髪の毛を何度か耳に掛けた。
「よし、『今日もシゲシゲは入院中。看護師さんにちょっかい出していた。来月には八十五歳を迎えるシゲシゲは、今日も相変わらず元気ハツラツ変態銀髪ゴリラだった』今日の観察日記はこれぐらいで良さそうだな」

 宗一郎や小泉さんのアドバイスを受け、観察日記の観察対象を決めたのは良かった。自分だけでは何を観察すればよかったのかも決められないだろうし、小泉さんと宗一郎のアドバイスが無ければヤル気も起こらなかっただろう。
 
 けれども、自分のお祖父ちゃんの生態を記録するのは、やっぱり何だかおかしい気がする。

 流石に鯉や盆栽、トウモロコシや野菜を観察対象にするべきだったのだろうか。
 いや、それだと飼育に失敗した時、取り返しがつかないから――。

 等と考えながら呆然と扇風機を眺めていた直後、扇風機の羽の回転数が落ちていく。

 僅かな微風を残した扇風機は完全に動きを止めた。
「暑いんだから止めないでよ」
「全く奇怪なカラクリだな。ほれ、鴉天狗が待ち呆けておるぞ柚子葉童子」
 視線を横にずらしてみると、縁側に置かれた扇風機へと手を伸ばす隻夜叉の姿があった。

 直垂に身を包み、籠手を身に付けた隻夜叉。彼は庭園内にある東屋の方へと指を差している。

「ほら、宿題が終わったんだろ。宝刀の使い方を教えてやるから、さっさと行くぞ」
 志恩が言った。

 屋敷に人が訪れないからなのか、彼は人の目も気にせず、鴉天狗の翼を広げて待っていた。
 
 シゲシゲのお見舞いの帰りに言っていた通り、志恩は俺に基本的な剣術を教えるらしい。
「言っとくけど、俺は刀なんか握った事ないよ? ていうか剣術なんて本当に必要なの?」
「隻夜叉はともかく、俺は仕事があるから夜中は屋敷に居られねえ。妖怪の祓い方を覚えてても損はねえよ」
「そういえば、楢野町に行った時も仕事だったのか?」
「まあな。あの日は楢野町に現れた妖怪を祓ってた。何も教えないまま行ったのは悪かったが、今となっちゃあ隠す意味もねえからな」

 縁側に置かれた七度返りの宝刀を持ち上げ、俺は志恩と隻夜叉の背中を追う。

 それから志恩は、八尾山に向かう前日の夜の事を教えてくれた。
 あの夜、彼は楢野町に出現した怪段級の妖怪を祓うため、現場に居た祓い屋の楢野家と協力して戦ったそうだ。

 深夜とはいえど、町中に怪段クラスの妖怪が現れるのは珍しいらしく、志恩が駆けつけなければ現場に居た祓い屋は全滅していたかもしれないとの事。
「ふーん。だから八尾山ではイライラしてたんだ」
「そんなとこだ。明け方まで戦いっぱなしで眠くて仕方がなかった。それに、実家に顔を出すのも面倒臭えからな」
 
 目的地に到着したのか、園路を進んでいった志恩と隻夜叉は前方で立ち止った。
 日も落ち始め、夕日が庭園内の池を照らしていく。
 
 回遊式庭園の中でも大きな島で立ち止まり、二人は俺の方へと振り返った。
 
「柚子葉童子。滝場での出来事を覚えておるか?」
 隻夜叉が言った。

 真剣な眼差しで見つめる隻夜叉の視線に耐え切れず、俺は彼から目をそらした。

 滝場での出来事。
 それってもしかして服を脱げって言ったことなのかな。
 あんな状況下で下着一枚にされたのは初めてだし、あんなに自然にキスをしたのも初めてだ。

 忘れようと思っても忘れるわけがない。

 落ち着きのない手で宝刀を握り、彼とのキスを想像しながら小刻みに体を左右に揺らす。
「えっと――まあ覚えてるよ。だって俺、二回目のあれだったし……」
「はあ、お主の脳内は煩悩だらけなのだな。接吻の事ではない――余が宝刀に妖力を込めた時の話だ」
 
 溜息交じりの彼の言葉と呆れた態度が目に入り、俺は我に返った。
 彼がそう言った直後、あの日の出来事が脳裏を過る。

 硫黄のような臭いの瘴気が滝場に漂い、水飛沫の代わりに血飛沫が空中を舞う。
 肉塊と化した霊的存在達の中心には、全身から妖力を放出する一人の青鬼が佇んでいた。
 
 宝刀を手に持ち、妖怪や化け物たちを斬り続ける藍髪の青鬼。
 直垂や左腕に籠手を着けていた彼の姿は、明らかに現代にそぐわない風貌をしている。
 
 彼が持っていた宝刀は鞘に収められており、七度返りの宝刀には霊力のような力が帯び続けていた。

「うん。そっちの事も忘れてないよ。妖怪たちを斬れたのは宝刀に霊力を込めたからだよね?」
「少し違う。余が宝刀に込めたのは妖力だ」
 隻夜叉はそう言いながら俺の隣に近づき、宝刀に手を伸ばす。

 宝刀に指先が触れた瞬間、俺が持っていた七度返りの宝刀は結界のような空間を作り出した。
 
 結界のような領域を作り、隻夜叉の手を弾き返す宝刀。
「えっ――これ、どういうこと……」
「結界を作りおったか妖刀め。やはり、持ち主以外の人物を拒絶するようになったか」

 訳も分からず持っていた宝刀を凝視していると、錆びだらけの宝刀全体に赤い膜が現れ始めた。
「隻夜叉、大丈夫? この赤い膜が妖力なの?」
「何度も言うがそれは霊力だ、心配には及ばん。この程度の火傷など数日で治る」
「おい青鬼、迂闊に宝刀を触れようとしたお前が悪い。そもそも柚子葉は霊術の素人だ。今日は”霊縛と妖縛”だけ身に付けてもらえば良い」

 錫杖を手に持ち隻夜叉の傍へと近づく志恩。それから彼は火傷を負ってしまった隻夜叉の代わりに、滝場で見せた技の事を教えてくれた。

「柚子葉、滝場で隻夜叉がやったっていう技は、”霊縛と妖縛”っていう、物体に霊力と妖力を付与する術式だ。霊魂を生まれ持った人間や怪段以上の妖怪が使えるものと考えておけ」
 錫杖を肩に担ぎ、志恩が言った。

 彼の話によると、”霊縛や妖縛”というのは霊感のある人間、又は妖怪などが使う能力とのことだ。
 怪段や忌段などといった霊的存在、霊媒師や祓い屋、坊主や解呪者といった人間であれば、身に付けていて当然の技術であるらしい。
 
 触れた物に霊力や妖力を付与する”霊縛と妖力”という技。
 才能を有している者であれば、十歳に満たない少年少女でも発動することが出来るとの事。

「霊縛は物体に霊力を帯びさせる技だ。使い方によっては――こんな動きも出来る」
 園路に錫杖を突き刺した志恩。彼がそう言った直後、俺は自身の目を疑った。

 瞬く間に形状を変化させた錫杖は、既視感のある一羽の鴉へと姿を変えた。
 
 キョロキョロと首を動かし、周囲を観察するような仕草をする鴉。
 彼は飼い主である志恩が居るのに気づいたのか、彼の肩に飛び乗った。
「ねえ志恩。その錫杖って”ヤタ君”だったんだ」
「柚子葉、これが霊縛の応用術だ。式神は元々ただの紙っぺらだが、霊縛術を式神に使えば生き物にだって変化させられる。今は宝刀に霊力を注ぎ込んでみろ。コツは体の中にある霊魂を意識することだ」
 
 志恩は霊魂に意識を注ぎ込めと言ったけど、果たして俺にそんなことが出来るのだろうか。

 隻夜叉に出会ったあの日、鬼除けの護符に霊力を注ぎ込めたのだってマグレのようなものだ。
 実体のない霊力という力を霊魂から引き出せたのだって、天青吾郎に追い詰められたからであって現実的ではない。
 
 ショートパンツのポケットから鬼除けの護符を取り出し、俺は取り出した護符を宝刀に添える。
「あの時の感覚、あの時の状況、滝場で感じたことの全部を思い出すんだ」

 護符を挟むように宝刀の柄を握り、目を瞑る。
 五感の全てを研ぎ澄ませ、肉体に宿る実体のない霊魂という物質をイメージした。
 
 天青吾郎と山男、化け物や妖怪たちの姿が脳裏を過り、それらの存在を斬り続ける隻夜叉の姿が脳内を埋め尽くした。
 霊的存在達が放つ血飛沫や瘴気の匂いが鼻先を漂い、水の落ちる音が耳へと流れ込む。

「柚子葉、霊縛は簡単に身に付けられる技じゃねえ。また今度付き合ってやるよ」
 志恩の声が耳に流れ込み、俺は目を開けた。

 自分が特別な存在であるという自信を持っていたが、俺は案外何処にでもいるような人間と変わらないようだ。

 握っていた宝刀へと視線を送るが、何の変化も見られない。
 鞘から引き抜こうとしてみたが、抜けなかった。
 
 隻夜叉の手を弾き返した領域も消えており、宝刀の全体に帯びていた赤い膜の姿も無くなっている。
「なんだか出来そうな気がしたんだけどなー」
「気にするでないぞ、柚子葉童子。霊縛や妖縛というものは天から与えられた才能が全てだ。一朝一夕で身に付けるものではない」
「まあ、こうなることは予想してた。霊縛や転入試験、葉月や茂爺さんの事も気になるだろうが、今は自分がやりたいことにだけ集中しておけ」
 
 励ますような口調で話しながら、屋敷へと戻っていく隻夜叉と志恩。

 霊魂を持つ者であれば当然のように使える霊縛という技術。
 浮世離れした幽体化の能力が使えるのにも関わらず、俺は宝刀に霊力を帯びさせることが出来なかった。
「結局、俺は特別でも何でもない。ただ、赤鬼に霊魂を奪われただけの普通の人間なんだ」

 志恩と隻夜叉の期待を裏切ってしまったからなのか、悔しさで宝刀を握っていた手に力が入る。
 重い足取りの中、俺は宝刀を握り締めながら彼らの跡を追った。
 
――――

 八月の下旬、二週間前には感じた蒸し暑い空気が嘘のように消え、八童子市には秋が訪れようとしていた。
 あと一週間もすれば九月を迎えるだろう晩夏の候。すぐそこまで秋が迫ってきているのではないかと思ってしまうような涼しさが八童子市内に漂う。

 カーテンの隙間から差し込む朝日が部屋中を明るくした。
 実家から郵送されたセーラー服を身に包み、机の上に置かれた鞄へと手を伸ばす。
「今日までやれるだけの事はやった。試験は簡単な筆記試験と面接だけだし、うまく猫を被ればいいんだ」
「おーい柚子葉、転入試験に遅れるぞ」

 一階へと続く階段の下から志恩の声が聞こえた。
「はいはい、分かってるって!」
「猫屋敷先生と小泉さんが外で待ってる。遅刻なんかしたら中卒になっちまうからな?」

 中卒。確かにそれは不味い。志恩との結婚条件は”高校卒業”だ。
 もしも、たったの数分の遅刻で転入試験を受けられなかったとすれば、高校にさえ入学できない。

 入学できないという事は志恩との婚約を破棄することになり兼ねない。

 葉月兄さんの勉強机の上に置かれた宝刀へと手を伸ばし、受験票や筆記用具などが入った学生鞄の中に押し込む。
 それから部屋から飛び出した。

 急な階段を駆け下り、上がり框に腰を下ろし、スリッパから革靴へと履き替える。
「それじゃあ行ってくるね!」
「柚子葉、朝飯は食わねえのか――いや、ちょっとこっち向いてみろ」
 志恩が言った。

 彼が先ほど言った通り、屋敷内の駐車場には宗一郎が待っているはずだ。時間が差し迫っているというのに何の用だろう。
「今日は要らない。試験途中で眠くなりそうだし。それより、あまり時間がないんだけど」
「いや、お前のその恰好、お前って本当に高校生なんだな」

 俺の体の隅々へと視線を移動させる志恩。
 いやらしい目つきというよりは、疑いを抱いたような彼の目つきが全身に突き刺さる。
「そうだよ。俺は誰もが一度は羨むような金髪美少女高校生」
「金髪美少女って……そこまで言ってねえよ!」
 
 どうして珍しい物でも見るような目つきをするのかと思ったが、改めて考えてみれば志恩に制服姿を見せたのは初めてだったかもしれない。
「見納めとけよ。このセーラー服を着るのは今日限りだからな」
「ほーん。何だか勿体ねえな」
「なんだよ勿体ねえって。セーラー服なんて今どきの高校生は着てねえよ」
「そうか? 俺は似合ってると思うが」

 サムズアップをこちらに向け、隠すような仕草もせずに白い歯を見せる志恩。
 
 そんな彼の不意な笑顔を送られ、恥ずかしさが込みあがった。
「分かった。転入後も制服を着るかは考えておくよ。それより志恩と隻夜叉の今日の予定は?」
「ああ、俺は八童子市の旧家の人間に会いに行く。隻夜叉は茂爺さんの代わりに畑作業だ」
「ふーん。志恩は何時に帰ってくるの?」
「何時でも良いだろ。ていうか、俺の心配なんかしてる場合じゃねえだろ。あんまり猫屋敷さんを待たせるなよ」

 志恩の言う通りだ。
 河口町から桑真高校までは、車でも最低一時間弱は掛かるはず。
 
 現在の時刻は午前の七時を過ぎたばかり。
 通勤ラッシュに巻き込まれてしまえば、どれだけ遅刻してしまうのか判断できない。
「じゃあ行ってきまーす!」

 玄関先まで見送ってくれた志恩と隻夜叉、千代子お祖母ちゃんに手を振り、敷地内に駐車していた車の助手席へと向かった。
 
 助手席に飛び乗り、運転席でハンドルを握る男の方へと視線を向ける。
「ごめんね宗一郎。本当だったら志恩が運転してくれるはずだったのに」
「構いませんよ柚子葉さん。教え子の面倒を見るのが先生の役目ですから」

 数十分ほど待たせたというのに、宗一郎は文句ひとつ言わなかった。

「柚子葉さん、転入試験は簡単な筆記テストと面接だけです。そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
 宗一郎が言った。

 彼がそう言った直後、俺と宗一郎が乗った車は走り出した。
「なあ宗一郎。午前の筆記試験はなんとかなると思うんだけど、面接って何を訊いてくるんだろう」
「そうですね。桑真高校の三部への転入試験ですから、普通の高校試験で訊かれるような質問はされないと思います」

 俺たちを乗せた車は秋川街道を真っ直ぐ進んでいき、八尾街道にぶつかる交差点を右折する。
 それから宗一郎は、面接試験で訊かれるだろう質問を教えてくれた。

 桑真高校の三部は一部や二部の生徒とは異なり、八童市の旧家出身や芸能関係に進もうとする者が多いとのこと。
 そのことから、面接では『何処の生まれであるのか』と言った質問や『卒業後の進路はどうするのか』などと言う質問をしてくると、宗一郎は予想しているらしい。

「それぐらいの質問だったら、たくさん練習したし余裕だな」
「油断は禁物ですよ柚子葉さん。面接官の方々は三部の教諭をしている者たちのはずです。貴女が三部の学生に相応しくないと思われれば、理不尽な質問をされるかもしれませんからね」
 宗一郎はそう言い、車をコンビニの駐車場へと入れた。

「もしかして、ニコチン切れ?」
「人を中毒者の様に扱わないでください。煙草は立派な嗜好品ですよ」
 宗一郎は胸ポケットから煙草を取り出したかと思いきや、スーツのポケットを探り始めた。

 数十秒、数分はポケットを探っていたのかもしれない。
 
 彼が何を探しているのか分かり、俺は学生鞄の中からライターを取り出した。
「これ貸してあげる。葉月兄さんの部屋に沢山置いてあるから気にしないで」
「御兄さまのライターですか。コンビニで買う手間が省けましたね」
 
 宗一郎が車から降りた直後、俺も一緒に車から降りる。
 コンビニの端っこに置いてある灰皿へと真っ直ぐ向かい、宗一郎の隣に佇んだ。