鬼童丸(きどうまる)の手のひらに握られた俺の霊魂は、小さな光となって彼の手のひらに吸収された。

 肉体から霊魂が離れていく感覚。
 普通に生きていくのに必要な何かを失った気がした。

 その直後、足に力が入らなくなり、立っていられなくなった。
 平衡感覚が狂い始めたらしく、地面が起き上がってくるように感じる。

 違う。地面が起き上がってるんじゃなくて、俺が地面に倒れようとしているんだ。

 葉月兄さんと志恩の方へと手を伸ばし、声を振り絞って助けを求めた。
「助けて――志恩……」

 俺の元に駆け寄る志恩。落下ポイントに飛び込んだ彼は、参道に倒れる俺を両手で受け止めてくれた。
「ねえ志恩……体が動かない」
「しっかりしろ柚子葉!」

 死人のように動かなくなりつつある俺の体。
 意識だけはハッキリしているのに、金縛りに遭ったかのように指先に力が入らなくなる。

 志恩の温かい手のひらが俺の手を包みこんだ。

 それからの記憶は途切れ途切れだった。

 俺を背負った志恩は、尋常じゃない速度で鬼童丸の背中を追い続けた。

 俺は力なく後方を振り返る。視線の先に居たのは、木漏れ日の斜面を走り続ける葉月兄さん。

 カランカラン、といった下駄が参道を跳ねる音が聴こえ、参道の両脇に置いてある赤い灯籠が目に入る。
 
「心配するな柚子葉。鬼童丸に追いついたら、すぐにでも霊魂を取り返したる」
 俺の頭を撫でた葉月兄さん。

「どうして鬼童丸(きどうまる)が現代に居やがるんだ。なあ葉月、てめえ蛸杉の結界を開けっ放しにしやがったな⁉」
 葉月兄さんがそう言った直後、志恩が葉月兄さんに向かって叫んだ。

「いや、それはあり得へん。あちら側の世界にいる陰陽師が死なない限り、八尾山に入山することもできないはずや」
 口ごもる葉月兄さん。一瞬の沈黙の後、葉月兄さんは叫んだ。

 結界。志恩の言っている意味が理解できない。
 もしかしたら、二人は俺に隠し事をしているのかな。

 そんなことを考えながら上を見上げた。

 木々の葉の隙間から差し込む木漏れ日。俺の顔を次々と照らしていくそれらは、心地よさを感じられるほど温かく思えた。

 暖かい。だけど凄く眩しい。それにまぶたが重くて目を開けていられない。

 首に力が入らなくなり、俺は志恩の背中に額を当てた。
 彼の甚平にしみ込んだ香水や汗、草花の匂いが鼻先を漂う。

 斜面の参道を駆け抜ける志恩の姿。俺の霊魂を必死に取り戻そうとする彼の横顔は、見惚れてしまうほど素敵に思えた。

  等と思っていた直後、志恩が立ち止った。

 八尾山の名所、”蛸杉(たこすぎ)”の前で立ち止った鬼童丸。

 俺は立ち止った彼を目で追い、声を振り絞った。
「俺はお前に何もしてない。それなのに――どうして……」
「”沙華(さはな)姫の生まれ変わり”、お前は運が悪かっただけだ。霊魂は有効活用させてもらう。悪いとも思わない、申し訳ないとも思わん。霊魂を奪われたこと……それは運命(さだめ)なのだ」

 杉の木に手を伸ばした鬼童丸。その直後、彼の体は杉の木に吸い込まれた。

 目を疑うような光景だった。
 杉の木に吸い込まれるのはおかしい。そう思ったのは俺だけではなかったようだ。

 俺を背負っていた志恩、彼の隣に佇んでいた葉月兄さんも愕然とした表情をしていた。

「柚子葉、どうやら俺たちは鬼童丸を追わなきゃいけないようだ」
 志恩が言った。

 彼は杉の木を囲むように設置された柵の前に俺を下ろし、着ていた甚平の上着をかぶせてきた。

「よーく聴けよ柚子葉。これから俺と葉月は平安時代の”桑都(そうと)”っていう都に行ってくる。どれぐらい掛かるか分からねえが、必ず霊魂を奪い返してやるからな」
「平安時代、桑都って……どこ」

 しゃがんでいた志恩に手を伸ばすが、手のひらは空を切った。

「なあ葉月。柚子葉に桑都のことを教えておくべきか?」
「いや、余計な心配を掛けたくはない。(しげる)祖父さんや千代子婆さんがなんとかしてくれるやろ……」
「そうか。なるべく早く戻ってくるからな」
「志恩。茂祖父さんと千代子婆さんに連絡したんだが、すぐに迎えに来るようだ」

 俺の傍から立ち上がる志恩と葉月兄さん。二人に置いておかれないよう必死に手を伸ばしたが、指先に布が触れるだけだった。
「志恩、葉月兄さん。置いていかないで……」
「ゴメンな柚子葉、お前の体じゃあ霊圧に耐えられない。必ず戻ってくるが、その頃は柚子葉も大人になってるかもな」
「志恩の言うとおりや。柚子葉は必ず綺麗な女になる。性格は少々難がありそうだが、致し方ないことや。ほな……またな――」

 鬼童丸のように杉の木に手を触れた志恩と葉月兄さん。二人は俺に手を振りながら姿を消した。

 消えていく二人を目で追うことしかできず、伸ばしていた腕にも力が入らなくなり、呆然と横たわるしかなかった。
「俺……このまま死んじゃうのかな……」

 俺の全身を照らし続ける太陽の光。俺を包みこんだ志恩の甚平。
 
 霊魂を奪われたせいなのか、不思議と起きていられなかった。
 葉月兄さんの話が本当であれば、シゲシゲと千代子お祖母ちゃんが迎えに来るはず。

 だけど、視界の端に佇んでいた人物の姿はシゲシゲでも千代子お祖母ちゃんでもなかった。

 
 俺を見下ろす黒い影。

 
 表情までは視えなかったが、目の前に佇む黒い影が危険な存在だとは思えなかった。
「懐かしい匂い。志恩の香水臭い匂いじゃなくて、もっと他の……」

――

「あれ、俺、寝てたんだ……」
 線香の香りが部屋中に漂い、俺は仏壇の前で目を覚ました。

 どうやら十年前の事を思い出している最中に眠っていたらしい。
 毛布を掛けられているところをみると、千代子お祖母ちゃんかシゲシゲが気を遣ってくれたようだ。

 枕にしていた座布団から起き上がり、居間に通じる襖を開いた。
「暑い――ねー千代子お祖母ちゃん……」
「おう柚子。やっと起きたのか、千代ちゃんが飯を作ってくれたぞ」

 聞き慣れた声の方へと目を向けると、縁側に座っていたシゲシゲお祖父ちゃんの姿があった。

 今年で八十五歳を迎える(しげる)お祖父ちゃん。

 千代子お祖母ちゃんは”シゲちゃん”と呼んでいるが、俺は小さいころから”シゲシゲ”と呼んでいる。

 綺麗に整えられた銀色の短髪、老人とは思えないようなガッチリとした体形。
 八十四歳とは思えない若さと活気のあるシゲシゲ。

 とてもではないが、彼を”お祖父ちゃん”と呼ぶには失礼だとも思えた。
「なあシゲシゲ……なにしてんの?」
「ああ、宝刀の手入れじゃよ」

 額や眉をこすり、居間の柱に掛けられた時計を見上げる。
 チクタク、と音をならす掛け時計は、午後の五時過ぎを差していた。

 宝刀の手入れ。というよりは、シゲシゲは鞘から刀を強引に引き抜こうとしていた。
「ねえシゲシゲ。今忙しい?」
「まあ、そこまでは忙しくないな……」
「いや、めっちゃ忙しそうじゃん。その”七度返りの宝刀”だけど、今年も抜けないままだったの?」
「まあな……」

 居間に置いてあった座布団を持ち上げ、縁側の縁に座るシゲシゲの隣に向かった。

 鞘から本体を引き抜こうと奮闘するシゲシゲ。

 全く。情けない話だ。
 代々、倉敷家の者に引き継がれるという”七度返りの宝刀”は、自分の意思で持ち主を選ぶ。という逸話がある。

 宝刀と言っても、全長は脇差し程度しかなく、鉄鋼で作られた鞘も錆びだらけだ。

 宝刀というよりは、”守り刀やナマクラ刀”と言った方が似合うだろう刀だが、シゲシゲにとっては大切な物であるらしい。

 シゲシゲのお父さん、所謂、俺の曽祖父にあたる人物からシゲシゲは刀を受け継いだが、曽祖父と同様に抜刀することが出来ないでいる。

 ゴリラを彷彿とさせるような体格を誇るシゲシゲだが、どうやら今回も抜けずに終わりそうだ。

 奮闘のあまり顔を真っ赤に染めるシゲシゲ。
「なあシゲシゲ。御飯が運ばれてきてるよ、今日は諦めときなって。第一、そんなサビだらけの宝刀が抜けたとして、一円の価値もないんだよ?」
「……今日こそ、柚子が遊びに来てくれた今日こそ、必ず抜いてみせるんじゃ」
「まあ無理だけはすんなよ。去年みたいに病院の世話になったら洒落にならないからさ」
「お……抜け……そう」

 シゲシゲの両肩をポンっと叩く。その拍子で宝刀が抜けた――と思われた。だが違った。

 シゲシゲの手のひらから飛び出した宝刀は、宝刀の名にふさわしいほどの"七度返り"で空中を舞った。

 俺とシゲシゲは、飛び出した宝刀に手を伸ばす。しかし、シゲシゲの怪力によって飛び出した宝刀は、ポチャン、という音と共に庭園の池に沈んだ。

 開いた口が塞がらないシゲシゲを見下ろす。思わずシゲシゲの肩を叩いてしまった。
「大丈夫だよシゲシゲ。あんだけサビてれば、これ以上はサビないよ」
「まあ、それもそうだな」
「シゲちゃん、柚子葉。晩御飯ができてるわよ。あんな物騒な刀なんか放っておきなさい」

 千代子お祖母ちゃんに肩を叩かれる俺とシゲシゲ。彼女がいつから縁側に立っていたのか理解できず、驚いてしまった。
 
 その時。俺の腹がグーっと鳴った。
「お祖母ちゃん。今日の晩飯ってなに?」
「里芋の煮っ転がし、らっきょの酢漬け、あとは――」

――

 俺と千代子お祖母ちゃん、シゲシゲの三人で食卓を囲み、料理を口に運ぶ。

 突然、何気ない会話をシゲシゲが振ってきた。
「柚子。体の調子はどうだ?」
「まあボチボチってとこだよ」
「そうか。今年も薬王院に向かおうと思うんだが、一緒に行くか?」
「えー。俺、今年で十七歳になるんだよ。一人でも行けるって」

 シゲシゲは寂しげな顔を浮かべている。俺は間髪入れず呟いた。
「"鬼避けの護符"だって持ってるんだし、そんなに心配しないでよ」

 ジャージの内側に縫い付けてある護符を見せる。

 それでも安心してくれなかったシゲシゲは、話を続けようとした。
「うーん。でもな……」
「シゲちゃん。柚子葉も大人よ。参拝ぐらい一人で行けるわよ」

 千代子お祖母ちゃんは、俺の援護をしてくれた。

 サンキューバッバ。

 食事を終えた俺は、考え込んでいるシゲシゲを置いて二階に向かう。
「新しい鬼避けを貰うだけなんだし、シゲシゲが着いてくる必要なんてないよ」
「そこまで言うか。それなら"これ"を被っていけ」

 座布団から立ち上がったシゲシゲは、バスの車内に置き忘れたはずの俺の"麦わら帽子"を持っていた。
「うそ。取ってきてくれたの?」
「柚子の頭は目立つからな。鴉天狗様が届けてくれたんじゃ!」

 まただ。またシゲシゲの長話が始まる。
 それから俺は柱に寄りかかりながら、シゲシゲの長話に付き合ってあげた。

 シゲシゲが幼い頃から十八歳までの頃。シゲシゲは、倉敷家の守り神である鴉天狗と毎日を過ごしていたという。

 淡い初恋や大人への階段、薬王院への参拝を付き合ってくれた鴉天狗。シゲシゲが辛い時にいつだって側に居てくれたらしい。

 しかし、十八歳の誕生日を迎えたシゲシゲ。その日から鴉天狗は、シゲシゲの前には現れなくなり、忽然と姿を消した。

 シゲシゲの話によると、鴉天狗は姿を消しただけで、いつだって傍にいるとのこと。

 その証拠として、シゲシゲが嬉しい時や悲しい時には、必ず倉敷家の屋敷内に"数枚の木の葉"が置いてあるらしい。

 柱に寄りかかりながら、俺は掛け時計の秒針を目で追う。
「ふーん。それでそれで」
「うむ。ワシと鴉天狗、千代子は三角関係だったんじゃ」
「ふーん。それでそれで」
「柚子。真剣に聞いてるか?」
「ふーん。それでそれで」
「まあいい。それから――」

 シゲシゲは目を瞑って昔話に夢中になっていた。
 耳にタコが出来てしまうほど聞かされた昔話。言うまでもないが、俺は退屈でしょうがなかった。

 千代子お祖母ちゃんに目を向けると、"あとは任せなさい"との合図を送ってきた。

「本当シゲシゲは話し出したら止まらないんだよな」と呟き、廊下の突き当たりにある階段を上る。

 急な階段を上り、葉月兄が使っていた部屋に入る。そこには去年と同様の部屋の姿があった。
「何も変わってない」

 妖怪や詩歌、モールス信号の資料が敷き詰められた本棚。歴史の教科書が並んだ勉強机。志恩が置いていったエロ本。

 等など、何から何まで去年、いや十年前から何も変わっていなかった。
 
 当たり前だ。葉月兄は十年も昔に消えたんだから。

 部屋の中央に置かれた万年床へと倒れ込み、あの日からの日常を思い出す。

 十年前のあの日。
 蛸杉という大きな杉の木の前で倒れていた俺は、葉月兄さんの連絡によって駆けつけたシゲシゲ、千代子お祖母ちゃんによって助けられた。

 その日から、俺は大人達にありのままを話した。

 蛸杉に吸い込まれた葉月と志恩、鬼童丸の事や"黒い影"の事も。
 だけど、俺の話は大人達に信用してもらえず、子供の妄言だと決め付けられた。

 山での遭難事件として扱われた事で、新聞の一面やテレビでもニュースになったりした。
 でも、一ヶ月、三ヶ月、半年と時間だけが過ぎ去り、葉月兄と志恩の捜索は打ち切られる。

 二人の成人男性が行方不明になった。ただそれだけだ。
 世間からしてしまえば、毎年起こるような行方不明事件と変わりはしない。

 それから時間が経ち、葉月兄と志恩の遭難事件は尾鰭(おひれ)が付いて"天狗隠し"とまで噂された。
 
 事件の関係者である俺は、当時通っていた小学校でイジメの対象になった。
 
「本当に葉月と志恩は消えたんだ!」
 教室の端に追い詰められた俺は、友達と思っていた男子や女子から睨まれる。

「お前の言うことなんか信じられねえよ」
「○〇が言ってる通り、誰もお前の話なんか信用できないよ」
「そうだよ柚子葉ちゃん。正直に言いなよ。"私が二人を隠しました"って」
「大体、女が"俺"っていうのも馬鹿だよな」
「やーい"嘘つきガイジン"」
 
  等々、罵詈雑言を浴びせられる。それが毎日続く。何ヶ月、何ヶ月も。
 そのせいで俺は、学校に行けなくなった。

 でも、十年経った十七歳になる今なら、彼らが考えていた事も理解できる。小学生という年代は、小さな事でも何かと噂になってしまう。

 俺の場合、片親が日本生まれじゃない事と、名前が"柚子葉"という事。そして、髪の毛が金髪だという事。

 邪を祓うはずの柚子の葉が、二人の成人男性を行方不明にさせたんだ。

 小学生は小さい事でも敏感な反応を示す。
 それにたまたま、二人の成人男性が行方不明になってしまった事が重なってしまったのだ。

 誰かが蛇口に口を付けて飲んだ事でも学校中の噂になるんだ。遭難事件ともなれば、事件の事は小学生の頭に永遠と残るだろう。

 小学生時代の嫌な思い出が、頭の中をグルグルと駆け回る。
「ダメだ。寝られない」

 勉強机の上に置いてある置き時計を見上げる。ここからだと何時か分からない。チクタクという音だけが部屋中に響き渡る。

 万年床と化した敷布団から起き上がり、置き時計を目で追う。
 
 時刻は十一時十五分。
 横になり始めたのが九時だったから。と考えていると、窓の外に見える屋根の上に、鳥がとまっているのに気づいた。

 コンコン、コンコン。とクチバシで窓を突く鳥が目に入る。
「全く、これだから田舎は嫌なんだよ」

 再び毛布を被る。それでも鳥は窓を突き続けたままだった。
 仕方なく起き上がり、鳥を追い払おうとする。
「あれ? お前もしかして――」
 
 目を凝らし、窓を突く鳥を視界に入れた。
 ソイツは、バス停の敷地内で助けた(カラス)だった。