時刻は二十時十五分。
 スマホを弄ってみると、今の時刻が画面に表示され、志恩が話を始めてから三十分ほどの時間が経過したと確認できた。

「昨日の夜、お前は俺の霊力と馬鹿青鬼の妖力に当てられて気を失った。軽率な行為だったが、お前が下着姿で居たから何かあったと思っての行動だ。本当にスマン」
 志恩はそう言い、卓上に置かれた麦茶入りのコップへと手を伸ばした。

 彼の両耳は真っ赤に染まっている。
 昨日の夜に行った”勘違いの行動”を恥ずかしがっているのか、反省しているようだった。

 志恩は俺が下着姿で居たこと、注連縄に封印していた隻夜叉が隣に座っていたことで頭に血が上り、咄嗟に妖術を使って俺を救い出そうとしたらしい。

「柚子葉は何度か体験しているだろうが、説明はしてなかったよな?」
 そう言った志恩は、卓上の真ん中に置かれた煎餅へと手を伸ばす。

 彼が何の事を説明しようとしているのか分からなかった。
 けれども、何となくではあったが、志恩が言いたいことは分かった。
「えっと、説明って”突然消えたりする霊術”のこと?」
「ああ、そのことだ。十年前の参道で見せた高速移動。あれは”怪段や忌段”に値する妖怪だけが使える妖術のひとつだ」

 それから志恩は妖術について話してくれた。

 妖怪や怪異、物の怪や化け物といった霊的存在達には、ピラミッド型の上下関係が存在するらしい。
 下位クラスの霊的存在達は、妖術や霊術といった術式を使えないようだ。

 下から順に等級を言うのであれば、最底辺に存在するのが幽霊と呼ばれる実体のない存在達。危害を加えない者たちを”奇段”と呼び、無害な妖怪や浮遊霊、地縛霊といった者たちが、それらに分類される。

 奇段の上に存在するのは、”怪段や忌段”と呼ばれる存在達。
 敵意を見せる怪異や物の怪、化け物や怨霊等をそう呼ぶらしく、霊的な力を持たない人間にも視認できる存在が”怪段”に当たるそうだ。

「柚子葉童子。鴉天狗の説明を補うぞ。お主の前に現れた陰陽師や山男も怪段に値する存在だ」
 志恩の説明に割り込む隻夜叉。彼は志恩の説明には足りない部分があると言い、志恩に代わって話を始めた。

 隻夜叉の話によると、怪段に分類されるのは霊的存在だけではないらしい。
 
「怪段を視認できる人間、それらを操る陰陽師や術者なども怪段と思ってよいぞ」
 隻夜叉が言った。

 彼が言うには、霊的存在達だけではなく、それらを視認できる人間も”怪段”にあたる存在であるとのことだ。
 奇段と怪段の間には、ハッキリとした線引きがされていないらしく、それらの上に存在する”忌段”から見てしまえば、奇段や怪段は同じような存在であるとのことだ。

「余のような大妖怪は忌段、鴉天狗のような小妖怪は怪段と覚えておくといい」
 煎餅に手を伸ばす隻夜叉が言う。大雑把な説明ではあったが、確かに志恩の説明では理解できないことを補ってくれた。
 
「なるほど。霊的存在達にも階級のようなものが存在するのですね。先ほどから話を聞いていましたが、何となく理解できました」
 座卓の正面に座っている宗一郎は、二人の話を理解できたようだ。

 霊的存在達にも階級が存在する。山男が奇段の存在ではなく、怪段の化け物であること。
 そして、目の前に居る鬼妖怪と鴉天狗が”怪段と忌段”に分類される存在であること。
 
 シゲシゲが山男に襲い掛からなければ、どうなっていたのだろう。
 あの時、俺が隻夜叉の封印を解かなければ、俺は死んでいたのだろうか。
 タイミングが悪かったとしても、あの場に志恩が駆けつけてくれなければ、俺はどうなっていたのだろう。

 等々、俺は昨夜のことを思い出す。
「三人とも。昨日は本当にありがとう。最後に志恩と隻夜叉に質問があるんだけど、答えてくれるかな?」
「おう、答えられる範囲であれば、何でも答えてやるぜ」
「柚子葉童子。小妖怪などを頼らず、余を頼ってもよいのだぞ?」

 志恩は片膝を抱え、卓上に腕を置いた。
 それに合わせ、隻夜叉も座椅子にふんぞり返る。
 宗一郎は胸ポケットから煙草を取り出し、煙草の先端に火をともした。

 三人の視線が俺に真っ直ぐ注がれる。
 緊張で喉が渇き、俺は卓上に置かれたコップを手に持ち、麦茶で喉を潤した。
「ねえ志恩。志恩はずっと屋敷に居るけど、家の人は心配してないの?」
「えーっと……まあ心配してないって言えば嘘にはなるが……」

 天を仰ぎ、志恩は答えをはぐらかす。
 それから俺は、隻夜叉に視線を送った。
「ねえ隻夜叉。今日は泊っていくんだろうけど、明日からはどうするの?」
「そ、そうだな。どうしたものか……」

 志恩と同様に天を仰ぐ隻夜叉。いつの時代から封印されていたかは知らないが、恐らく隻夜叉の居場所は現代には存在しないだろう。
 意地悪な質問をしたが、昨日の夜に味あわされた屈辱を思い返せば、これぐらいの意地悪な質問をぶつけてもいいと思う。

 最後に俺は宗一郎へと視線を送った。
「ねえ宗一郎。この二人、俺を嫁に迎える気でいるけど、宿無し根無し草だよね。どうしたらいいのかな」
「そのようですね。お二人共、衣食住に困っているようですし、余裕があれば柚子葉さんの屋敷で”飼ってみては”どうでしょうか?」

 その言葉を待っていたよ、宗一郎。

 志恩は八童家の嫡男であったが、十年前に失踪してから八童家から追い出された形となっている。
 アラフォーを迎えるであろう志恩にとって、倉敷家から提供できるものは衣食住しかない。

 さらに言えば、隻夜叉も志恩と同様である。
 いつから注連縄に封印されていたかは分からない以上、現代社会に隻夜叉の居場所は無いに等しいだろう。

 などと考えながら俺は座椅子から立ち上がり、天を仰いでいた二人の男性に問いかけた。
「志恩、隻夜叉。俺からシゲシゲに頼んでみるよ。シゲシゲだって畑仕事を一人でするのは大変だろうし、労働力が増えることを考えれば、断らないと思うよ」

 座椅子から立ち上がった俺は客間から出ていき、中庭を囲む廊下を進んでいった。
 厨房を通って居間へと向かっていくと、居間の中央へと料理を運ぶ千代子お祖母ちゃんと目が合った。
「ねえ千代子お祖母ちゃん。三人の晩御飯だけど……」
「志恩や猫屋敷先生、隻夜叉の分も並べておいたわ。これから一緒に生活していくんだから、居間で食べましょう」

 千代子お祖母ちゃんはそう言い、再び厨房へと戻っていった。
 俺は一言も千代子お祖母ちゃんに志恩と隻夜叉の事を教えていない。けれども、千代子お祖母ちゃんは隻夜叉と志恩の境遇を予想していたのか、俺が言うよりも早く、彼らの状況を理解してくれていたようだ。
「ありがとう、千代子お祖母ちゃん。三人に伝えておくよ。それより、シゲシゲは何処に行ったの?」
「ああ、シゲちゃんね。シゲちゃんは庭園の東屋に居ると思うわ。柚子葉に話があるようだし、ついでに呼んできて頂戴」

 千代子お祖母ちゃんの話によると、シゲシゲは庭園内部の東屋に居るようだ。

 持っていた倉敷家の宝刀を返さなければならないこともあり、俺は縁側に腰を下ろし、サンダルに履いて急いで東屋へと向かった。

 園路を歩きながらスマホをタップする。
 黄緑色のアプリを何度かスワイプしていると、スマホの画面に友達欄が表示された。

 友達欄から猫のアイコンが目印の友達へとメッセージを送る。
「宗一郎。千代子お祖母ちゃんが居間に晩御飯を用意してるから、隻夜叉と志恩を連れて居間で待っていて」
「分かりました。隻夜叉さんも志恩さんも空腹のようですし、先に居間へ向かっていますね」

 園路を歩きながらメッセージを送っていると、目的地である東屋が目に入った。
 東屋にはシゲシゲ以外の人物がいるらしく、シゲシゲの楽し気な声が東屋の外にまで漏れ出ている。
「なあシゲシゲ。千代子お祖母ちゃんが晩飯作ってくれたよ」
「ああ柚子。もうそんな時間なのか」
 
 東屋に入り建物内を見渡してみると、そこにはシゲシゲの姿しかなかった。
「シゲシゲ、誰と喋ってたの?」
「ワシの親友の鴉天狗と喋ってたんじゃ」
「鴉天狗の親友って、千代子お祖母ちゃんと三角関係だった妖怪の事?」
「なんだ柚子。覚えておったのか?」

 シゲシゲは東屋内に鴉天狗が居ると言うが、俺には彼の存在を視ることが出来なかった。
 滝場で鬼除けの護符を失った以上、本来ならば霊的存在たちを視認できるはずなのに、シゲシゲが言う鴉天狗の妖怪の姿はそこにはない。

 志恩や千代子お祖母ちゃん、隻夜叉から感じられる妖力や霊力さえも周囲には漂っておらず、俺はシゲシゲがついにボケ始めたのではないかと思ってしまった。
「俺には何にも視えないよ。それより、話って何なんだよ」
「ああ、七度返りの宝刀の事で話があるのじゃ」

 腰掛椅子から腰をあげたシゲシゲは、俺が持っていた宝刀に視線を送り、手を伸ばした。
「何だよ、ナマクラ刀に用があったのか」
「まあな。葉月が居れば、アイツに渡すつもりだった。アイツが帰ってこない今、それを受け継ぐのは柚子葉。お前だけじゃ」

 庭園内の池によって冷やされた風が東屋を駆け抜ける。
 首の後ろを手のひらで擦るシゲシゲ。彼が何を思ったのか分からないが、俺は差し出された宝刀を受け取った。

「柚子。昨日は助けてあげられなくて申し訳なかった」
 シゲシゲはそう言ったかと思えば、俺の隣に腰を下ろし、淡々と話を続ける。

 浅い呼吸を繰り返し、俺は平然を保とうと必死になった。
「全然気にしてないよ。あの時のシゲシゲ、めっちゃカッコよかった」
「そうか?」
「うん。山男に宝刀をぶっ刺したんだもん。普通の人間だったらできないと思う。俺のお祖父ちゃんがシゲシゲで良かった」
「そうか。孫娘にそう言われると恥ずかしいな」

 視線の先に居たシゲシゲ。
 そこには、昨日以前までに感じた覇気が宿っておらず、シゲシゲの姿は何処にでもいるようなお爺ちゃんと思える様をしていた。

 シゲシゲから受け取った宝刀を握り締める。
 何かに祈りを捧げ、当たり前のように訪れるそれを否定し、俺は心の中で最悪な事態を想像した。
「さっさと屋敷に戻ろうぜ。こんな場所に居ると風邪ひくよ」
「そうだな。千代ちゃんも待ってるだろうし、行くしかないか」

 俺はシゲシゲの手のひらを握る。
 ここで握っておかなければ、俺の中の何かが壊れそうな気がしたからだ。

 シゲシゲの手を引っ張りながら園路を歩き続ける。
 氷のように冷たくなった俺の手のひらには、シゲシゲの手のひらに宿った暖かさが伝わっていた。

――――

 志恩と隻夜叉、宗一郎と千代子お祖母ちゃん、シゲシゲと俺で座卓を囲み、テレビを見ながら食事をする。
 
 不意に視線を隻夜叉に向けてみると、卓上に身を乗り出した彼が目に入り、俺は呆然としながら箸を進めた。
「隻夜叉。それはテレビっていうの。妖術でもなければ霊術でもないよ」
「なんと奇怪なカラクリだな。余がいた時代では……」

 どうやら、隻夜叉はテレビを見るのが初めてだったらしく、瞬く間に移り変わるテレビの画面に警戒していたようだ。

 それから隻夜叉は、自分が封印された時代の事を話し始めた。
 隻夜叉の話によると、彼は平安時代の末期に生きていたらしく、京都で暴れ回っていた隻夜叉は、武士たちに追い詰められたことで八尾山に身を隠したらしい。

 俺は適度に相槌を打ち、隻夜叉の話を聞く。
「へーそうなんだー」
「うむ。その道中で酒呑童子とはぐれてしまったのだ」
 隻夜叉は話を続けた。

 酒呑童子という鬼の妖怪と夫婦であった事や酒呑童子の美貌。煙管を片手に暴れ回る酒呑童子の姿は、まさに鬼神と言っても過言ではないこと。等々、彼女の美しさや強さが言葉だけでは言い表せない、と隻夜叉は言い続ける。

 隻夜叉の話は興味をそそるものばかりだった。ただ。
 だた、何かに気を取られながら食事をしていたせいなのか、大好物なはずの漬物が美味しく感じられず、俺は黙々と作業をするように口内へと食事を運び続けた。

 死人と同様の肉体を持っても、味覚は存在している。視覚や嗅覚にも異常を感じないことを考えると、やはり、シゲシゲの体を心配しているから食事が美味しく感じられないのだろう。
「ごちそうさまでした。千代子お祖母ちゃん、お腹いっぱいで食べられない。ごめんね」
「あら、そうなのね」

 ご飯が盛られた椀を卓上に残し、俺は腰掛椅子から立ち上がって居間から出て行った。
「シゲシゲの体、大丈夫なのかな」

 風呂に入るため、渡り廊下を進む。
 その道中、俺はシゲシゲが東屋で言っていたことを思い出し、昨夜の参道での出来事を思い返した。

 シゲシゲは普通の人間だ。銀髪ゴリラのワンパクお爺ちゃんだとしても、彼はただの人間なのだ。今年の十月には、八十五歳になる。
 表面上には出していないだろうが、シゲシゲは参道で全身を強く打ったに違いない。
 
 離れ座敷に到着した俺は、モコモコのショートパンツやパーカー、下着等を脱衣所のロッカーに押し込む。
「シゲシゲが怪我をしてないわけがない。明日の朝、シゲシゲを市内の病院に連れて行こう」

 などと考えながら浴場を進んでいき、持っていた風呂桶でお湯を掬った。
 デコボコした浴場に膝を着き、風呂桶で掬ったお湯を肩に流す。
 
 滑らかなお湯が肌の上を流れ落ちていく。
 露天風呂の縁に腰を下ろし、足先をお湯に差し込み、そのままゆっくりと肩までお湯に浸かった。