顔を上げるとバケットハットを被った男性、片桐さんに心配そうに尋ねられる。


「あ、えっとあれが……」


私の指先を辿って片桐さんが部屋の方を見て、「うわ、水漏れ?」とドアに手を掛けて中を覗いてる。ビチャビチャと靴が濡れてしまってる。


「帰ってきたらこんな状態で」
「…上の人留守なのかな?」
「えっと時間が時間なので行っていいものか。あと大家さんには連絡してるんですけど通じなくて」


はぁ、と溜息を漏らす。朝から出掛けて授業を受けて働いて来た身体は既に疲れちゃってて、このまま外で寝ちゃおうかな。
マン喫とか行くのも勿体ないし。


「……もし嫌じゃなければ、今夜だけ家に泊まる?」
「え!? いいんですか!?」


隣人とはいえ、赤の他人の私を家に入れてくれるなんて神様みたいだ。
ありがたやーって拝み倒したいくらい。


「あ、ごめん。ちょっと待っててもらっていいですか。散らかってる」
「あ、全然大丈夫です!」


泊めて頂けるんだから、なんなら散らかっていても気にしない。
片桐さんが気にしないなら私が片付けたっていい。
暫く待って、と言っても時間にして二、三分待って内からドアが開く。
「どうぞ」と俯き加減に言うその顔が、今朝ドアの前で挨拶した時の事を思い出させた。
あの時はまさか片桐さんのお家にお邪魔する事になるとは思ってもみなかったなぁ。


「お邪魔しまーす」と、部屋に入ると同じ間取りなのに住人によって部屋の雰囲気は変わるんだなって。
まだ引っ越したてで、ほぼ何も無い殺風景な私の部屋と違い片桐さんの部屋は細々した物が多く感じた。
六畳の部屋の窓際に布団が敷かれていて、私の部屋がある方の壁には机があってパソコンやら本やらがいっぱいだ。
そこで見つけた物に興味が出て、「あのこれは?」と聞いてみる。
昔遊んだ事があるリカちゃん人形くらいの大きさの人形だけど、顔も何もない関節が綺麗に区切られたぐにゃぐにゃしたやつ。


「ああそれは、デッサン人形だよ。俺、イラストレーターしてて」
「イラストレーター!すごいですね!」
「いや、大したものじゃなくて。でもいつかそれで食っていきたいなぁって。て、なにペラペラ喋ってんだか。あ、布団使ってください」
「ええ! とんでもないです! 今夜だけですし、全然その辺の床で大丈夫です!」


片桐さんだってこんな時間に帰って来たんだから疲れてるはず。ちゃんと布団で寝てほしい。
「あー、俺まだ仕事残ってて」と、パソコンを開きペンを持つ。
もしかしてイラストだろうか?


「少しパソコンの明かりが邪魔になるかもしれないけど、これ朝までに仕上げなきゃいけないから布団は空くんです。なんで遠慮なくどうぞ。あ、でも俺のなんか嫌かな…」


あたふとと慌てる片桐さんは、優しい人だなって思う。
寝床を譲っても譲らなくても気にしてくれる。私は厄介者なのに。
ここで粘ってたら逆に申し訳ないかもと判断し、私はせっかくの好意に甘えさせてもらうことにした。


「あのじゃあ、お言葉に甘えて」
「う、うん。どうぞ」


着替えも何もかもないんだった。と言えば、それも遠慮がちに「俺ので良ければ」と上下スウェットを貸してくれた。
六畳間の部屋の外、水回りが揃ってる場所の隅っこで着替えさせてもらってガラッと戸を引くと、片桐さんは既に机の前に座り仕事を初めているみたいだった。
出来るだけ静かに部屋に入って荷物を枕元に置いて、布団の中に潜り込む。
そこから見える片桐さんの背中はかなり猫背で、身体痛くならないかなって気になった。
そういえばさっきチラッと見えた。眼鏡をしていたっけ。目が悪いのかな。
「おやすみなさい」と、小さく呟いた声に、数秒後同じように「おやすみなさい」と返って来ていた事に私は気づかない程、深い深い睡眠の底に落ちていった。