懐かしい曲が聞こえて足を止めた。昔、片想いをしていた彼にリクエストされた恋の歌だった。メロディーがうろ覚えだったし、恥をかきたくなかったから断った。あの時の彼の残念そうな顔を思い出しながら静かに口ずさむ。メロディーはもう完璧に覚えたというのに。いうのに……。



「君の悪い癖だよ、平気じゃないのに平気なふりして、つよい子っぽく振る舞おうとして失敗して、夜に押しつぶされそうになって震えてる。そういうところ、僕は嫌いだな」彼が言って、わたしは口を閉ざす。そこまでわたしを解っているなら「嫌い」だなんて言わないで。……恋が終わる気がした。



今日も常連のあの人が店に来たら話しかけよう、名前を聞こうと決意し、その時を待つ。鼓動は忙しなく、もはや心臓が得体の知れない何かに進化しているようだった、が。あの人が可愛らしい女性を連れて来店したのを見て、言葉を失った。心臓は進化をやめ、鼓動はすぐに平静を取り戻した。



彼とはもう五年会っていない。新しい連絡先も知らない。簡単には行けないほど遠い場所に住んでいる。もうあの恋は終わった。掘り返してはいけない。そう思っている、のに。彼に開けてもらった左耳のピアスホールを閉じることができないのは、執着なのでしょうか。



わたしの好きな人には好きな人がいるから、わたしも好きな人に負けないくらい好きな人を見つけたいのに、難しい。参考にと開いた恋愛小説の登場人物たちは、そんな高度なことを簡単にこなし、ハッピーエンドを迎えている。どうしたら好きな人より好きな人を見つけられるのか。深く深く、息を吐く。



自分の気持ちを裏切った日の朝日はやけに眩しい。まるでわたしを責め立てているようだ。どうしてあんなことをしたんだ、何よりも裏切ってはいけないものだったのに、と。分かってるよ、分かってるけど、だってどうしようもないじゃない。負った傷の治し方を、わたしは知らないのだから。



四月になったらあの道を一緒に歩こうって約束したの。四月じゃなきゃ意味がないの。二人で見たいの、美しい春がずらりと並んだ光景を。空も地面も空気も目一杯の春だねって笑い合いたいの。来週にはそれが叶うから。ねえお願い、もう少しだけ。お願いよ、神様、



ついこの間までちょっとのことでびーびー泣いて、いつもわたしの後ろに隠れていたってのに。スーツを着ただけで随分変わるものね、就職おめでとう。言うと彼は「お前は俺の母ちゃんか、同い年だろ」と呆れた顔をした。その表情すら大人びて見え、どうしようもなく泣きたくなった。



片想い中の幼馴染みは、成人式に帰省して以来、全く音沙汰なしだから。成人式の写真を届ける、なんて理由をつけて、初めて一人で新幹線に乗った。私がよく知る彼ならきっと喜ぶと思っていた、のに。顔を合わせた瞬間悟った。きみは私を置いて、大人になったのね。成長してしまったのね。



かすかに彼の香りを感じて顔を上げる。こんな所に彼がいるはずがない。突き放したのは私なのに、こんな些細なことで思い出すなんて身勝手過ぎる。今更一緒に居たいと言ったら、彼はどんな顔をするだろうか。その反応がこわいから、彼から連絡をくれないかな、なんて。これも身勝手過ぎて、涙が出た。



火を点けた覚えのない煙草が灰皿に在り、私は過去に思いを馳せる。そういえばあの人もよく、煙草に火を点け、吸わないまま考え事をしていたっけ。あの人も今頃、ここからずっとずっと離れた場所で吸っているだろうか。それとももう禁煙しただろうか。