会う度に禁煙を勧める僕の彼女に、こんな言い訳をした。「十六世紀のインディオはなあ、煙草を吸うことで精霊と交わり、慰め、力を借りていたんだぞ!」「今は二十一世紀で、ここは日本なんだけど」正論過ぎて、僕は持っていた煙草を灰皿に押し付けた。



私の頭を撫でてくれるあの大きな手が大好きだったはずなのに、いつしかそれを拒絶するようになり、ついには払いのけた。次にその手を見たときには、深い皺が刻まれていた。私は数年ぶりに、かつて払いのけた手を握る。もう私の頭を撫でることも、動くことすらもない、その手を。



母校が廃校になるらしい。卒業してから一度も行くことはなかったけれど、廃校と聞くとなんだか寂しい。こっそり書いた壁の落書きも、卒業制作の手形も、体育館の照明に投げて引っかけた上靴も。もう誰の目にも入らないなんて……。



「丸い氷は四角より表面積が小さいから溶けにくいんだよ」背後からそんな声が聞こえ、手にしたグラスの丸い氷を見下ろす。四角より丸、か。私ももう少し丸くなったら今よりずっと穏やかに暮らせるのだろうか。考えていたらまるで返事をするように、黄金色の液体に浮かぶ氷がからんと鳴った。



光が溶けている。目が覚めて一番最初に目に入った天井を見て、そう思った。真白な天井と黄色い陽光がまじり合って、きらきら輝いている。ごく普通のアパートの一室とは思えない美しさだった。あまりの光景に時間を忘れ、ずっと天井を見つめていた。時間すらも溶けてしまっていた。



闇が溶けている。注文していた遮光カーテンを付け終えた感想がそれだ。一片の光もない。部屋中全ての色が闇に溶かされてしまったかのようだ。そういえば有名な作家が遮光カーテンを「ガンダルフに見える」と称していたっけ。右も左も分からないのは、ガンダルフに包まれているからか。



春の匂いって好きだな、柔らかくって優しくって丸くって、空気が輝いて見えるし。言うと「この前は冬の匂いが好きだって言ってたのに」と返される。冬も好きよ。ツンとした空気の中にどこかでストーブを付けている匂いが混じって、冬が来たなって感じる。その匂いも今は昔。もうすぐ春がやって来る。



教室、廊下、体育館、グラウンド、プール、売店、部室、屋上、階段……。それぞれがそれぞれの場所でそれぞれの思い出を作った校舎は、過ごす人たちの顔ぶれを変え、明日からも続いていく。わたしが何度も部員募集のポスターを貼った階段の踊り場の掲示板も、明日は別のポスターが貼られるだろう。



冬服のリボンはなんとも形容し難い色だし、夏服のスカートは黒一色でOLみたいで、正直あんまり気に入ってはいなかったけれど。明日から着ることはないと思うと寂しい。たった三年しか着なかったし、長い人生の中の三年なんてほんの一瞬のはずなのに。気付かなかった。どれもこれも、大切だったんだ。



ねえ、私たち。もう何年も前から知り合いだったのに、親しくなれないままだったね。なんていうか、気難しそう、とか、堅苦しそう、とか。先入観で勝手に壁を作っちゃって。でも話してみたら案外楽しくって。もっと知りたいなって思ったから。ねえ、そろそろ私たち友だちになろうか、数学。