【side 時雨】
──2年前。
壁一面に並ぶ書棚、磨かれた黒檀の机、執務室の奥に座るのは吸血鬼界を束ねる男───朝宮麗音。
銀縁の眼鏡の奥で光る瞳が、書面の一点を滑るたびに空気が張りつめていく。
紙を捌く指先、無駄のない動作。その一つひとつの所作に、“頂点に立つ者”としての品格が滲んでいた。
そして俺── 一ノ瀬時雨はその前に立ち、静かに言葉を待っていた。
こうして執務室に呼ばれるのは何度目だろう。
本部の実務を支える補佐官として俺が麗音さんに呼ばれるのは珍しいことではなかった。
でも、いつまで経っても慣れなくて、毎回緊張で体が強張ってしまう。
「時雨。……君に重要な長期任務を任せたい。」
響く声に、部屋の空気がわずかに張り詰めた。
「……重要な、長期任務ですか。」
この人に呼ばれる時は、たいてい“厄介なこと”が多い。
また面倒なことを頼まれるのかな……。
そんな心の声は表に出さず、静かに麗音さんを見つめた。
「俺の後継者について、だ。」
その一言に、思考が止まる。
後継者──つまり、“吸血鬼界の新しいトップ”。
麗音さんは机の上の書類を一枚取り上げ、滑らせるように俺の前へ差し出した。
「……何人か候補がいたが、最も有力なのは赤羽家の長男だと思っている。」
俺は視線を落とし、封筒に刻まれた家紋をなぞった。
赤羽家。
古くから吸血鬼界を支えてきた名家のひとつ。
「確か……赤羽叶兎さん、でしたっけ。」
「あぁ。彼に、街の治安維持という試練を課した。実績次第で、正式に後継者とするか判断するつもりだ。」
麗音さんの目が静かに細められる。
「そこで…動向を正確に把握するために、君を潜入捜査員に任命したい。」
「……潜入、ですか。どうして俺に?」
声に出してから、わずかに息を呑む。

