あれから、もう一ヶ月が経った。


あの時春流くんがすぐに応急処置をしてくれたおかげで傷跡は驚くほど綺麗に塞がって、治癒の能力が完全に無効化されなかった事は幸運だった。


でも、胸の奥に残ったもやもやだけはどうしても消えてくれない。


あの夜を境に、叶兎くんは正式な「後継者候補」として、街の治安維持や各方面との調整に追われるようになった。日中はお父さんがトップとして仕事をしている本部の方で会議や報告書の確認、夜になればトップとして今後必要な政治・歴史の勉強。いつ見ても、スケジュールがびっしりと埋まっている。


まるで…私だけがぽつんと、日常の中に取り残されているみたいだった。


……そして、あのとき迫られた二つの選択肢も、まだ選べずにいる。



扉の隙間から見える叶兎くんの机の上には、見慣れない封筒や書類の束。

朝起きたときにはもう叶兎くんの姿はなくて、帰ってくる頃には日付が変わっている事も日常茶飯事だった。


寮の食堂で一緒に食事をする回数も、授業で隣の席に座る時間も、少しずつ減っていって、むしろ、父の方が叶兎くんと顔を合わせる機会が多いんじゃないかと思うほど。


ロビーですれ違っても、「おはよう」と「おやすみ」の一言だけ。ゆっくり話をする時間なんてなかった。


「忙しそうだね」って笑ってみても、叶兎くんは少し眉を下げて、「もう少ししたら落ち着くから」とだけ言って、また扉の向こうへ消えていく。

その背中がどうしようもなく遠かった。

ほんの数週間前まで、隣で同じ景色を見て笑い合っていたのに。
今はもう、伸ばした手の先にすら触れられない気がする。


頑張りを応援したい気持ちはある。
でも、それ以上に、叶兎くんには少し休んでほしかった。


…けれど、彼が背負っているものの重さを知らない私が、そんなことを言っていいわけもなくて。
ただ、扉の向こうで光る明かりを見つめながら、そっと見守ることしかできなかった。






──そして、もうひとつ。朔の処遇も決まった。



あの騒動以来、私は彼と一度も顔を合わせていない。
連絡も途絶えたままで、父も「今は会わない方がいい」とだけ言って、それ以上話してはくれなかった。


けど、叶兎くんが静かな夜にその話をしてくれた。

この時が、最後に2人でゆっくり話しができた時間だ。



「朔のことだけど……麗音さんが、償いの場を与えるって言ってた。今までの罪を消すことはできないけど、誰かのために働いてもらうって。……それに、朔も自分の能力の被害者だからね。」


その声には、微かな怒りと哀しみの両方が滲んでいた。

父の監督のもとで、朔は本部に隣接する部署に所属することになったらしい。朔と同じように能力で被害を受けた人々の支援、そして裏で動く吸血鬼の情報収集。償いと再生の第一歩だと。

あと、天音くんの弟さんと妹さん達のこともひとまず父が面倒を見てくれているらしい。


そして叶兎くんは少しだけ苦い笑みを浮かべて言った。


「胡桃があいつを許しても……俺は許してない。でも、今の朔のことは……少しずつ、信じられたらいいとは思ってる。」


叶兎くんなりの“信頼の形”なんだと思った。

…許すことではなく、見届けること。
私もそれは同じだった。


そんな叶兎くんの背中を見て、また少しだけ惹かれてしまった。
でも、惹かれれば惹かれるほど、その距離が遠くなる気がして。


叶兎くんはいつも、光の向こうにいる。