夕食を食べ終えてふと気づくと、芙美乃はテーブルに突っ伏して寝ていた。
時刻は十一時を過ぎていて、つけっ放しにしていたタブレットは充電が切れていた。

スマートフォンに切り替えると、対局はまだ続いている。
しかし、廉佑の評価値は14%まで下がっていた。
そこから廉佑が指すたびに12%、8%、と下がっていき、ついに1%になった。

廉佑はもう頭を抱えておらず、相変わらずあっさりとした手つきで駒を進める。
評価値が1%から増えることはない。

まくっていたワイシャツの袖を下ろし、紫紺のネクタイを軽く直して、脱いであったジャケットを羽織った。
人差し指、中指、薬指の三本を揃えて、盤上の駒の位置を直す。
駒の下のラインと盤の線が合うように。
次に、持ち駒もきれいに並べた。
そしてひと口、水を飲む。

『負けました』

さっと礼をしながら、廉佑は明瞭な声で投了を告げた。
「あのひと」の声だった。

中継は感想戦という、対局後の反省会に移っていった。
対戦相手は胡座になり、脇息に頬杖をついて早口で何か言っている。

『この銀、どっちに引いたらいいのかわかんなくて』

気心知れた関係なのか、とても砕けた言葉使いだった。
廉佑も、うんうんと、微笑みながら答える。

『それなら本譜の方が自然かなぁ』

『△3五歩は考えなかった?』

『歩切れになっちゃうのが嫌だったんだよね。他に何かあればなぁ、って思ってて』

『そっかぁ』

『△6九玉のとき、何か嫌な手あった?』

何だか楽しそうだな、と芙美乃は思う。
あの夜、芙美乃が命の心配をした棋士の姿とは違っていた。
負けたのに悔しそうには見えない。
勝った棋士の方も喜びを表すでもなく、首をひねりながら話している。

『ここで急に悪くしたかなって思ったんだけど、何指したらいいのか全然わかんなくて。歩は嫌?』

『嫌だ。角打ったらすぐ死ぬもん』

廉佑も相手の棋士も声を立てて笑った。
廉佑は膝を抱えて座っている。
そんな少年めいた仕草になるは、少年のときから変わらない関係がこうして続いているせいかもしれない。

『先に一手入れとかなきゃいけなかったかな。やっぱり足りてないかぁ』

廉佑は天井を仰いだ。
蛍光灯の明かりが、苦々しげな表情を照らす。

悔しくないわけがない。
やっぱり悔しいに違いないのだ。
でも根本的に将棋というゲームが好きなのだろう。

また廉佑の笑い声がする。
やわらかく、朗らかな。

――ああ、そうだ。こんな声で笑うひとだった。