どれくらい時間が経っただろう。流石に火照った頬も冷めてきた頃、


「はあ」


 葵君が大きく息を吐いた。


「羽田君?」


 たずねる私に葵君は寂しそうに笑った。

 そして正面を向いた。


「僕、調子悪いんです。今の曲、なんだか上手く演じられなくて……」


 葵君はじっと足元の一点を見つめながらそう言った。

 私は黙って葵君の話を聞く。


「何かが違うというか。イメージが、わかないんです。滑っていても、自分のものにできない感じで……。だから、曲を変えたいと思っているんです」


 それで元気がなかったんだ。


「日向先輩、まだピアノ続けてますか?」


 唐突に聞かれて私はどきりとした。
 
 ピアノ?


「え? う、うん。趣味の範囲でだけど」

「昔、よく弾いているのを聞かせてもらいましたね」


 葵君が遠い目をする。

「そう、だね」

「懐かしいな……」


 葵君は目を細めた。そして、思い立ったように、


「僕、ピアノ曲がいいな」


 と言った。


「え?」


 葵君は私の方を向いた。


「日向先輩! 先輩のピアノ、聞きたいです!」

「ええ?!」


 葵君の真剣な瞳に真っ向から見つめられて、私は自分の頬が熱くなるのを感じた。


「今日、これから、だめですか?」

「今から?!」

「って、急すぎですよね。すみません。無理ならいいんです」


 葵君は困ったように笑った。

 さっきから葵君は笑っていてもいつものようなきらきらした明るさがない。私はそれがとても悲しく思えた。


「いいよ!  私も今日は時間あるし、大丈夫!」


 私の言葉に葵君は顔を輝かせた。


「いいんですか? やった! ありがとうございます!」


 葵君は顔をくしゃくしゃにして笑った。葵君らしい笑顔。やっぱり葵君は明るい笑顔が似合う。
 
 私も思わず笑顔になった。