「王子、おはよう〜」


 聞こえてきた女子の声にドキリとした。

 いるんだ、葵君。

 靴箱の上履きに手をかけながら、不自然にならないように注意して声のした方を向く。



 ーーいた。



 姿を見つけただけで、こんなにも心臓がうるさい。


「おはよう」


 葵君が笑顔で応えている。やわらかで、誠実さに満ちたテナーの声。耳が自然と葵君の声をとらえてしまう。

 葵君の挨拶が響くだけで、朝の空気が爽やかさを帯びる気がするから不思議だ。

 すっと伸びた背筋が美しい葵君。見慣れたブレザーの制服が、葵君が着ると素敵に見える。

 「王子」というあだ名の通り、葵君はそこにいるだけできらきらして見えるんだ。

 その葵君が近づいてくる。一歩ずつ。もう、すぐそばまで。

 鼓動が早まる。

 上履きのかかとにかけた手が震えそうになる。息を吐きながら上履きを床に下ろして、靴を靴箱に入れた。

 そのとき。

 全神経が後ろに集中するような感覚。背中が熱くなるような。

 ああ。全身が葵君の存在をとらえているみたい!


「日向先輩おはようございます」


 かけられた声に、一瞬息をするのを忘れそうになった。心臓がばくばく言っている。

 葵君の声はすぐ後ろのやや上から降ってきた。

 やっぱり葵君が真後ろにいるんだ。

 また背が伸びた?


「……おはよう、羽田君」


 振り返って挨拶をすると人懐こい笑顔を浮かべた葵君がいた。

 この笑顔が好き。

 葵君の整った顔は笑った時だけ幼さを帯びる。


「また、背、伸びた?」

「わかりますか? 伸びました。日向先輩より、もうだいぶん高いでしょう?」


 嬉しそうに笑う葵君。


「本当だね」


 本当はその笑顔をずっと見ていたい。でも、私にはその笑顔がなんだか眩しすぎて、思わず下を向いてしまった。
 
 葵君はかっこいい。なのに可愛い。こんな近い距離でこんな笑顔を見せられて、平気な女子がいるわけない。



「誰? あの人?」

 聞こえてきた女子の声に私はハッとする。誤解されちゃいけない。葵君に迷惑かけちゃうし、私も嫌がらせされたら大変だ。


「それじゃ、私、行くね」


 慌てて上履きに足を入れる。

 葵君は、またニコッと笑って、控えめに手を振った。

 その仕草が嬉しいのに切なくなる。もっともっと葵君を見ていたいけれど。

 私は葵君に頭を軽く下げて、教室へと歩き出した。後ろ髪を引かれるとはこんなことだと思いながら。