「僕、そろそろ帰りますね」

「あ、うん」


 葵君がソファーから立ち上がったので、私もピアノの椅子から立ち上がった。


「今日はわがままを聞いて下さってありがとうございました」

「ううん。葵君が元気になって良かった」


 葵君はにこっと笑って玄関のドアノブへ手をかけた。


「それじゃあまた」

「うん、またね」


 私が手を振ると葵君も手を振って、そして一度軽く会釈をしてドアを開けた。私は閉まろうとするドアにとっさに手をかけた。


「あ、葵君! 気をつけて帰ってね。また! またね!」


 葵君はちょっと驚いて、次の瞬間顔をくしゃくしゃにして笑った。昔から知ってる葵君の笑顔だ。


「はい、沙羅さん」


 小さくなって行く葵君の後ろ姿を見ながら、私はぼうっとしていた。

 今日あったことは本当に現実なのだろうか。私、公園でいつの間にか寝てしまって夢を見ていたんじゃないだろうか。

 自分で頬をつねってみたけれど、あまり痛みを感じない。もう一度強くつねって、


「あ、痛い」


 と私は呟く。

 夢じゃない? 夢じゃない!

 両手を重ねて胸にあてる。まだ心臓が早鐘を打っていた。


「沙羅、何してるの?」


 帰宅した母に声をかけられるまで私はぼんやりとそこに佇んでいた。