「はい、どうぞ」


 母が紅茶とクッキーを葵君の前に置いた。


「ありがとうございます」

「本当に久しぶりね。すっかり有名人になってしまって、なんだかあの葵君なのかしらと不思議だわ」


 葵君は苦笑いをする。


「本人は全然変わってないと思うんですけれどね」

「そうね、こうして見ると面影が残っているわ。うちはいつ来てくれてもいいから、ゆっくりしていってね」

「ありがとうございます。嬉しいです」


 葵君の笑顔に母も微笑むと、


「じゃあ、私は買い物に行ってくるわね」


 と外へ出て行ってしまった。

 自分の家に葵君と二人きり。母は気を使ってくれたみたいだけれど、先ほど二人で歩いていた時と違ってなんだか気まずい。恥ずかしい。

 とりあえず母が入れた紅茶を飲む。葵君も私も小学生の時はコーヒーが苦くて飲めなかったから、こうしてよく母がいれてくれた紅茶を飲んだっけ。

 『エリーゼのために』の後は何を葵君のために弾いていたかな? 

 思い出そうとして、私は唐突に寂しい気持ちにおそわれた。

 確か、葵君はスケートの練習が忙しくなって、家に来られなくなった記憶がある。


「えっと、次は何を弾こうか?」

「そうですね、沙羅さんの好きな曲を聞きたいです」

「うーん」


 私はちょっと困ってしまった。

 どの曲にも好きな所も苦手な所もある。そして、それぞれの曲に思い入れがあった。


「じゃあ、最近弾いてる曲でもいいかな?」

「もちろんです!」


 私はショパンの曲を何曲か弾くことにした。

 『エリーゼのために』と違って難易度が上がると、葵君が聞いていることもあってとても緊張する。暗譜で弾く自信がないので楽譜を開いて譜面台に置いた。

 弾き始める。

 『幻想即興曲』。『黒鍵』。

 私の指が鍵盤上を左右に行き来する。

 難しくなっていくと弾くことに集中して、葵君の存在が気にならなくなっていった。