「私は、この世の中に本当に悪い人なんか一人もいない。母からそう教わりました。」


「えっ?」


その言葉に、滝はハッとして、友紀に視線を戻す。


「もちろん、これまで出会った人を全て好きになれた訳じゃないですし、仲良くなれたわけでもないですけど、でも決定的に嫌いになったり、憎んだ人はいなかったと思います。だから・・・その言葉は間違ってないと思ってます。」


微笑んで自分を見る友紀を、滝は少し眺めていたが


「そうか・・・素敵なお母さんだな。」


と呟くように言う。


「はい、大好きです。」


そう言って、屈託のない笑顔を浮かべる友紀を見て、滝もつられたように笑顔を浮かべた。


「羨ましいな。」


「えっ?」


「実は俺にも、同じようなことを教えてくれた人がいた。」


「みたいですね。」


「知ってたのか?」


「新井前室長がおっしゃってました。次長が昔、こんなことを言ってたって。」


「新井さん、覚えてたのか・・・。」


そう言って、滝は少し遠い目をした。


「俺もあの頃は、その言葉を信じていた。よく言えば純粋、悪く言えば世間を、人間を知らなかった。」


「次長・・・。」


「お前には悪いが、俺は今はその言葉は間違ってると思っている。だから・・・俺はお前に尊敬されるような人間じゃない。」


「・・・。」


そう言った滝の表情は、少し寂しそうに、友紀の目には映った。


「また、長話をしてしまったな。」


そんなことを言いながら、腕時計に目をやった滝は


「さぁ、もうひと頑張りするか。杉浦、気をつけて帰れよ。」


友紀にそう言い残して、オフィスに戻ろうとする。


「でも、今日はもうお帰りになられた方が・・・。」


思わず呼び止めるように友紀は声を上げる。


「そうしたいのはヤマヤマだが、正直手一杯なんだよ。」


「えっ?」


「忘れてるかもしれんが、俺は全く門外漢の部署から来て、せいぜいまだ1か月ちょっとしか経ってないんだ。みんなは俺が自分でいろいろ動いていると思ってるようだが、それはとんだ買い被りだ。俺は最初から全部新井さんに相談して、新井さんの指示通りに動いていただけ。それが全く異例の人事で、その人が突然いなくなって、自分よりもっと門外漢の上司がやって来て・・・はっきり言って迷惑してるんだ。」


「次長・・・。」


滝の口から愚痴めいた言葉がこぼれて来て、友紀は正直驚く。


「ということだ。泣きごとを聞かせて済まなかったな。忘れてくれ。」


そうニヤリと笑うと滝は歩き出す。


「でも・・・。」


友紀は更に声を掛ける。


「こんなに毎日のように残業されていると、お身体に悪いですし、奥さんやお子さんも心配されるんじゃ・・・。」


「お前、何を言ってるんだ?」


友紀の言葉を遮るように、滝の厳しい声がする。ハッと息を呑む友紀に


「俺には妻も子もいない。そんなものは・・・俺の人生に現れることはないし、また必要もない。」


吐き捨てるように言うと、そのまま足音も荒く、滝はオフィスに入って行く。


(次長・・・。)


友紀は呆然とその後ろ姿を見送っていた。