神の家はあらゆるものを拒まず、常に扉を開けている。たとえ、銀製の蝋燭台や皿を強盗が時に狙う危険があろうとも、神の僕たる聖職者は教会の門を閉ざすことはない。

 それは、ピエール神父のいるフランス北部の田舎町の教会でも同じことであった。
 
 1794年、2月13日の月曜日、革命暦でいうと雨月プリュヴィオーズ22日の夜、フランス北部では大雪が降っていた。

 ピエール神父のいる田舎町もその例に漏れず、夜も早い中、外は白銀の不思議な明るい世界となっていた。
 
 ピエール神父は教会の執務室で、年季の入った机に座り、溜まっていた仕事をしていたが、寒さのあまりとうとう根負けし、暖炉に貴重な薪を使うことを決意する。

 彼は暖炉の中に薪の山を積むと、ため息をつきつつ火をつけたのだった。
 
 今、フランスはパリにある革命政府による恐怖政治に覆われているが、物資の値段は人間の命のように革命政府の自由になるわけではない。

 薪もパンも高騰を続け、田舎町の教会の経営は苦しい。ピエールは最近では薪を一つ投げ込むのにすら神経を使うようになっていた。
 
 そんな折、一人の青年が駆け込んできた。
 
「ピ、ピエール神父!」
「どうしたんだ、フレデリック助祭? そんな青ざめたような顔をして」
 
 ピエールはこの年で20歳になる部下を驚きのまなざしで見つめた。
 
「どうしたもこうしたもありませんよ、神父! あなたの弟、ジョゼフを名乗る男がいま教会に来て、ピエール神父に会わせてくれといってきました」
 
 フレデリックの言葉にピエールは思わず目を見開いたが、すぐに笑って否定のポーズを取った。弟ジョセフは死んだはずだ。
 
「こんな大雪の日に来客か?」 
 
 ピエールは青ざめて震えている青年に対して、何でもないかのように睨みつけてやった。急なことに驚いてしまったが、こんな日に来客があること自体にわかには信じがたかった。

「そうです。こんな雪積もる中、こんな場所に来客です」
 
 フレデリックは諦めたように答えた。
 
「で、その来客は私に用があると確かにいったんだね?」
「はい。あなたの弟、ジョゼフを名乗っています」
「それにしても、弟などどいうのは悪い冗談にもほどがあるな。ジョゼフはもう死んでいるよ」
 
 ピエールは苦笑した。彼は確かに弟が死んだという確証を持っている。いまや疑うべくもない。
 
「それは僕も知っています。でも、先方が確かにそういっているんです」
 
 ピエールはフレデリックの言葉に、机で始めていた仕事を中断して立ち上がると、ため息をついた。
 
「こんな日に弟を名乗る来客……か。どんな詐欺師だろうか。いや、ひょっとしたら弟のさまよえる霊か、はたまた悪魔か。まぁ、直接会えばわかるだろう」

 来客は教会本堂に並ぶ椅子のうち、最前列の一角に座っていた。彼は本堂の上を、十字架に貼り付けになった救い主キリストを眺めていた。その表情はどこか苦しそうであった。
 
 ピエールは十字架像の横にある通用口から出て、来客を一目見た瞬間に、弟のジョゼフでないことがすぐにわかった。
 
 弟のジョゼフは小柄、赤毛、細面が特徴の男だったが、来客は大柄、金髪、強面が特徴の男である。

 ジョゼフは彼の親と同じ農夫が適任なほど純朴で優しい外見をしていて実際そうであったが、来客の男は戦士特有の血生臭さを身体全体から発していた。

 5年前に出ていったとはいえ、生まれ直さない限りジョゼフがこんな姿形を取ることはないだろうとピエールは思った。
 
「あなたが私の弟と名乗っている人ですか?」
 
 ピエールは努めて笑顔でたずねた。弟でないことは分かったが、この来客がどのような意図で弟と名乗ったのか分からない。

 恐怖政治がパリを中心に猛威を振るう状況で、見知らぬ他人に不用意な発言は慎重に行わなければならなかった。
 
「そうだ、ピエール神父。俺はお前の弟としてここに来た」
 
 来客は、ピエールの記憶にあるようなジョゼフの優しい声色とまったく似つかない、人に威圧感を与える太い声を本堂いっぱいに轟かせた。
 
 ピエールはそれに非常な不快感を感じながらも、一方で言葉遣いの不自然に気がついた。来客は弟と名乗りながら、ピエールを兄と呼ばず、なおかつ「弟としてここに来た」という。
 
 そして来客は続けていった。
 
「神父さんよ、俺は懺悔(ざんげ)がしたい。懺悔室に案内してくれ」
 
 ピエール神父は来客に洗礼を行った教会についてだけ尋ねただけで懺悔室に通した。

 来客は、本名をパオロといい、間接的に弟でないことを認めた。

 だがピエールとしてはパオロがピエールの弟、ジョゼフであると主張している件以外にする話に不自然な点は見出せなかったから、胡散臭く思いながらも、一応は迷える子羊として扱うことにし、懺悔室に通した。
 
「さて、パオロさん」
 
 懺悔室にパオロが座ったのを確認したピーエルは話しの開始の合図としていった。網目状の敷居の向こうにうっすらをパオロの姿が見える。
 
 と、ピエールの呼びかけにパオロはすぐさま反応した。
 
「俺はジョゼフとしてお前に話をしたい」
 
 今度はお前呼ばわりらしい。
 
「……あなたはジョゼフではない」
 
 ピエールは怒りを抑えつつパオロに言った。いくら信徒であっても、神父の弟を名乗っていて、それが明らかに違っているのに、なお名乗り続けている。ピエールはそこに何らかの悪意を感じた。
 
「だが、俺はジョゼフとして懺悔しに来た」
「本人以外のことについて懺悔するなど聞いたことがない」
「じゃあ、あんたはパオロの懺悔として聞けば良い。俺はあくまでジョゼフとして懺悔するぜ? これならいいだろう?」
 
 ピエールは内心毒づきながら渋々了承した。
 
「では、懺悔を聞きましょう」
「懺悔したいことはだな、俺が悪魔だということだ。俺は罪を犯した。それをあんたに告白したい」
「悪魔ね……」
 
 ピエールは大きなため息をついて目を瞑った。
 
 またこの手合いだ。
 
 革命の混乱で精神に病を追うものは多い。旧王制アンシャン・レジームのときに啓蒙(けいもう)学派が培った科学の力の「洗礼」を学校教育を通じて受け取ったピエールにとって、本物の悪魔と偽者の悪魔の違いは分かっているつもりだった。
 
 人間には、自己の逃げ道として時に悪魔につかれたフリをするものもいる。

 こんな田舎町でもたまに自称他称問わず「悪魔つき」が出現するが、ピエールは本物の悪魔に会った試しがない。
 
 いつも適当に「悪魔祓い」の儀式をやれば、たいていの場合はコロリと治って、日常生活へと戻っていく。

 本物の悪魔ならば、革命前まで農民だったピエールの悪魔祓い程度では到底払うことができないと常日頃、ピエール自身ですら思っていた。
 
 ピエールはパオロの懺悔に思わず苦笑していたが、パオロはさらに続けた。
 
「ピエール神父さんよ、俺は『悪魔の耳』だ」
「悪魔の耳? なんだ、悪魔じゃないのか?」
 
 ピエールはここで新鮮な驚きを感じた。自身を悪魔だの、あるいは最近革命の反キリスト的風潮の影響のせいだろうが、自身を神やキリストと自称する輩まで出る世の中で、悪魔の「耳」だと言う人間をピエールは知らなかった。
 
「そうだ。俺は悪魔の耳だ。俺はジョゼフとして、悪魔の耳となって犯した罪を告白したい」
 
 ピエールはパオロの言葉に興味を引かれた。

 弟を自称し、悪魔を自称する男に神の僕たるピエールは怒りを抱き、嫌悪しても仕方がない状況であったが、そんな変な自称も二つも続けば、怒りや嫌悪よりも不思議と興味がわいて来るのであった。

 それに神の僕として偽証の罪を諭し、悔い改めさせるのも神の僕として立派な仕事である。
 
 ピエールはパオロに先を促した。
 
「で、あんたは悪魔の耳としてどんな罪を犯したんだ?」
 
 どうせ今夜は大雪で、仕事もあと少しを残すのみである。ピエールは結局、この茶番に付き合うことにした。
 
「俺は、ロベスピエールの下でたくさんの人を殺した。ギロチンで血の海を生んだのさ」

 ピエールは突然出てきた権力者の名に身体を固めた。ロベスピエールといえば、今、パリの国民公会、公安委員会にいる恐怖政治の中心である。

 彼のせいで、1日2,3人程度だったギロチンの待ち人が、60人以上に増えたという。国民公会の派遣議員の下、政府から選挙を経て神父に任命されたピエールにとって、それは雲の上の権力者であった。
 
「それは……また、ずいぶんな話だな」
 
 ピエールはこのとき、男の話に対して半信半疑になっていた。最初は信じる気にすらならなかったから、少しの間にずいぶんな進歩だ。

 弟を自称し、悪魔の耳を自称し、そしてロベスピエールの部下を自称するなど、話がぶっ飛んでいると思ったが、パオロの話はなぜか不思議な現実味を帯び始めていた。
 
「で、それと悪魔の耳がどう話に絡むんだ?」
「ジョゼフは、5年前、お前の下を去った」
 
 パオロの静かな言葉はピエールの苦い記憶を掘り起こす。
 
「……そうだ。だが、それがどうしたというのだ? 彼はもう死んだ」
「ヴァンデ反乱でジョゼフは死んだよな。始まって3ヶ月目に投入されて3ヶ月、連日のように戦い彼は死んだ。死んだ時、四肢はバラバラで、つまりは跡形もなかったが、最後をジョゼフの上官が見ていて、わざわざお前の下を尋ね、最後を涙を交えて、雄弁に語ったのだ。もう1年半以上前の話になるか」
 
 ヴァンデ反乱とは1793年3月、革命暦芽月ジェルミナルに起きたヴァンヌを中心とするフランス西部地域で起きた一大反乱であり、未だに政府が鎮圧に手を焼いている内乱だった。

 そのため国民公会は「戦争に関わった可能性のある者は、老若男女を問わず、容赦なく殲滅せよ」という命令を出し、パリ以上の虐殺劇が繰り広げられていると聞く。
 

 ピエールの弟、ジョゼフは政府軍の一員としてその内乱に参加し死んだ。
 
「……なぜ、それを知っている」
 
 ピエールは、この男は何かを知っていて、自分に接近してきたのだという考えが起こっていた。
 
「それはお前、俺はジョゼフだから、いや、ジョゼフだったからさ」
 
 パオロは意味不明な言葉を、ピエールに投げる。ピエールはそこで怒りにとらわれた。
 
「あんたはジョゼフじゃない! ジョゼフはあんたのような大男じゃない! 悪魔と自称するなんておろかな真似はしない!」
「ああ。その通りさ」
 
 ピエールはパオロの態度に驚く。怒り半ばで言ったものの、反発を覚悟する冷静さはあったからだ。それが、あっさりとピエールの言い分を認める。

 だが、パオロは唐突な一言をピエールに投げかけた。
 
「あんたは今、こう思っている。俺にとって、神父職は重荷だ。実際、弟を死なすくらいなら、彼をここに残して神父として推薦してやればよかったってな」
「な……」
 
 図星であった。
 
「あんたはジロンド派どもが制定した聖職者基本法で恩恵を受けた口だ。正統派カソリックに属する聖職者をローマの教皇パパの権威ではなく、民衆の選挙による総意で任命された最初の神父様だもの。教皇の非難で、この国の聖職者は政府に忠誠を誓う宣誓聖職者と反発する拒否聖職者に別れたが、あんたは教皇ではなく、神父の職に固執した。憧れていたのに、合わない。弟の方が合っていたのではないかと思いながら」
「――やめろ!」
 
 ピエールは叫ぶ。それは自分だけの思いだけだったはずだ。それをなぜ、この今日初めて会った人間に、見透かされ、(えぐ)らねばならないのか。
 
 ピーエルの叫びは本堂にこだましたが、パオロはそれを異に返さなかったのか、声の調子をまったく変えることはなかった。
 
「ピエール神父。これが悪魔の耳の力だ。悪魔の耳は人の心にある清きも穢れも、その音色を聞き分ける」
「……なるほどな。確かにこれがあんたの力なら、悪魔というのも納得できる」
 
 それは人の心を抉る。

 だが、人は悪魔という超常の力に頼らなくとも、理性の光によって人の心を抉ることができるのも、ピエール神父にはわかっていた。
 
「だが、弟が死んだ話といい、俺の話といい、俺の周辺を念入りに調査し、ちょっと頭を働かせればわかる話かもしれない。そうなら、それは悪魔の耳じゃなくて、悪い人間の耳にすぎない」
「確かにそうだ。よし、ならお前にしかわからない罪を暴こう」
「俺にしかわからない罪?」
 
 そのとき、俺は未知の不安に怯えていることを自覚していた。下手にパオロに抗議して暴かれるべきでないものを暴かれる恐怖だった。
 
「ジョゼフが5年前、この村を出たのはお前のせいだ。お前はジョゼフの才能に嫉妬し、陰湿な暴力を彼に振るっていた。どれくらい陰湿かというとこの村の人間が今まで全く気がつかず、村の有力者として神父に選ぶいくらいにな」
 
 ピエールはそこで息を飲むが、何もパオロに反論することはなかった。そしてさらにパオロは続けた。
 
「お前の両親は貧しかった。だから兄弟のうち一人しか学校にやることができなかった。最初はジョゼフだった。彼はお前に勉強を教えたが、お前は彼の悪口を両親に吹き込んだ。それも巧妙に。そして次はお前が学校に行った」
「やめろ……」
「お前は、ジョゼフの才能とその優しさ、人を救いたいという有り余る願望を持ったジョゼフにつけ込んだんだ。ジョゼフは自分を追い込んだお前をその追い込んだという事実を知ってすらうらみも抱かず、復讐もせず、そして革命が起きると人を救ういい機会だと村を飛び出してしまったのだ。お前は身勝手にも、いまさらそれを悔いている」
「やめろ!」
 
 今度こそピエールは立ち上がると、懺悔室の向かい側にいるパオロの席の戸を開け、パオロの襟元をつかんだ。

 ピエールは5年前に飛び出し、3年前に死んだと知らされたジョゼフの面影を思い出し、胸が痛かった。

「……真実は痛かろうよ」
 
 パオロはピエールを見て笑っていた。
 
「お前は、お前は……いったい何者なんだ!」
 
 ここに至り、ピエールはこの男の言っていることを真剣に捉えていた。

 そんなピエールの様子を襟首をつかまれたまま、笑いながらパオロは答えた。
 
「俺は悪魔の耳。人の清きも穢れも聞き分ける耳だ。人の魂に取り付き、貴様らが救世主キリストと仰ぐ男が誕生する前からあった存在だ。まぁ、もっとも一時期、新約聖書にはキリストの12使徒の次にくる者、13人目と自称していた時期もあったがね」
 
 そしてパオロは深呼吸して続けた。
 
「俺は迷ったお前の弟に尋ねたよ。『人々を救いたいか』と。彼は了承した。そして人々に、相容れない人々を殺すことで救いをもたらした。だが、彼は虐殺の手綱を引くことに反発した。その類まれなる優しさでな。俺は彼に負けた」
「なら、なんでジョゼフは死んだんだ!」
 
 パオロは答える。
 
「ジョゼフは俺もろとも身を滅ぼすつもりだったんだよ。なにせ悪魔つきと主張しても、いまや、革命政府の奴らが神は作るわ、悪魔になるわの大判ぶるまい。聖職者は亡命だの、処刑だの、免職だので自分のことで精一杯。だれが本物の悪魔を認識して、それをはらってくれる? ジョゼフの能力は、ロベスピエールが反体制派を洗い出すのによく利用されたよ。彼が俺の存在を知ったときに言った言葉を知っているか? 『なら効率的に反革命分子を殲滅できるな。俺は悪魔の手も借りたい』ってよ! ははは! 悪魔の末席にいる俺でもあいつの物言いには関心したぜ!」
 
 パオロの笑い声がむなしく本堂に響き渡った。
 
「つまり、ジョゼフはあんたを、悪魔の耳を追い出すために、自ら激戦に身を投げ、祖国のために最後を遂げたってわけか……」
 
 そういったピエールはパオロに突き飛ばされた。ピエールは大きな体格のパオロの力を受けてよろめくが、彼―悪魔の耳―を見つめていた。
 
「お前の弟のジョゼフがそんな風にがんばっちまったから俺がここに来る羽目にもなったんだぜ」
「どういうことだ?」
「あいつの優しさは、悪魔の耳の俺でも驚くほど、人を超えていた。なにせ、俺に呪いをかけたくらいだからな」
 
 そういって、悪魔の耳は恥ずかしそうに頬を掻く。
 
「あいつは俺が悪魔の耳としてあいつを操り、ロベスピエールに処刑者の注進をしていたときでも罪悪感を感じていたよ。そしてあいつは抵抗し、俺に勝って、自らを死に追いやることで俺に勝ったんだ。だからこうして今度は大男に取り付く羽目になったのさ」
「貴様! ジョゼフを返せ! よくも俺の弟を!」
 
 ピエールがパオロに再び掴みかかろうとするが、見えない力で吹き飛ばされた。
 
「無駄なことだ。いまや、鎖が取れたからな。あー、きつかった。お前の弟のジョゼフこそが神父になれば、歴史を残す人間になったかもしれないぜ? なにせ数千年の中で、悪魔の耳の俺をここまでひどい目にあわせた上位3位には入るからな。人間の中じゃ、結構尊敬しているんだぜ?」
 
 ピエールは椅子に、床に背中をぶつけた痛みに耐えつつ、悪魔の耳を見据えて尋ねた。
 
「貴様、懺悔をしにきたのじゃなかったのか」
「ははは! 悪魔が教会に懺悔などするものか! 俺はジョゼフの鎖、つまり奴の人知を超えた優しさから出た罪悪感の縛りを取るためにここに来ただけだ! だから、ぼんくら神父のお前にあらいざらいぶちまけてやったんだ! つまり、お前のおかげで鎖はとけ、俺は俺の仕事に戻れるってわけさ!」
「な、なんということだ……」
 
 ピエールが悪魔の耳に突きつけられた真実にわななくと、教会の正面入り口のドアが一気に開いた。本堂には強烈な雪風が舞い込み、ピエールにも吹雪のように襲い掛かり、周囲の視界を失った。
 
「なぁ、ピエール神父! なんで悪魔が存在しているか、知っているか?」
 
 視界がない中、悪魔の耳の声が聞こえた。そして、彼の質問は聖職者であるピエールには簡単であった。
 
「神が御自身の栄光を示すため、生んだ人間に与えた自由意志を、神を選びなおすのに使うのか試すためだ」
「そうだ! 俺は人間を堕落させるのが仕事だ。お前の弟はその試練に耐え、自ら考える栄光を選んだ。貴様も自ら考える栄光を選べ!」
 
 悪魔の耳の言葉が聞こえた直後、吹雪は収まった。そして、ピエールは執務室で仕事をしていた。暖炉で燃える薪の爆せる音が聞こえる。

 ピエールは一瞬のうちの情景変化にしばらく左右を見渡していたが、ノックの音に気がつくと「入れ」と声をかけた。
 
「神父。さっき、入り口に客人が来て、この手紙を渡してくれと……」
 
 フレデリック助祭はピエールに蝋で封印された白い封筒を手渡す。
 
「その男は、大柄で金髪、戦士のような男じゃなかったか?」
 
 ピエールが尋ねると、フレデリックはとても不思議そうにピエールを見つめた。
 
「ええ、そうですが……。なんで知っているんです?」
「……いや、古い弟の知り合いでね。そうじゃないかと思ったんだ」
「でも、こんな大雪の日に来るなんて、ものめずらしいですね」
「まぁ、な……」
 
 ピエールはフレデリックの話も半分に、彼から渡された封筒を紙切りナイフで開けた。

 最初にあったのはパオロ、悪魔の耳からの手紙だった。それは奇妙に独特な線形で書かれている。少しだけ気持ち悪くなるが、読めないことはない文字だった。

“貴様の弟からの遺言を預かっている。これを渡して俺はもとの日常に戻るぜ。お前は出来た弟ももって幸せだったな。もっともそれを見出すのが遅すぎたのがお前の不幸だが”
 
 内容を把握したピエールは次に進む。
 
 
”拝啓 ピエール兄さんへ
 
 ピエール兄さん、お元気でしょうか。私は今、戦場におります。詳細な場所については軍機につき書けない旨、ご了承ください。
 
 あれから5年が過ぎました。私が故郷の村を出て、この革命に奉公するようになってからもうそんなに経ったのです。私は、この間、革命に貢献できるように努力してきました。しかし、主なる神はいつも人に試練をお与えになる。私はその試練に、屈し、「悪魔の耳」と契約してしまいました。悪魔の耳というのは、人を不幸にする能力を与える力です。私はこの力を見誤り、多くの人をギロチンで死なせてしまいました。
 
 今、反革命勢力にギロチンの嵐をお見舞いするとかの理由で、ロベスピエール(悲しいことですが、私は彼のもとで多くの血を流しました)の下を離れ、すでにご存知かとは思いますが、ヴァンデ反乱の鎮圧に従事することになりました。すべては悪魔の耳を鎮めるためです。
 
 悪魔の耳は通常、人の自由意思を誘惑し、打ち勝つと、その意思を支配し、のっとってしまうそうですが、私の場合、不思議とそれが徹底されませんで、だからこうして手紙も書いてしまうし、多くの人間の血を流す結果をもたらしてしまいました。私が悪魔の耳に負けずに、あるいは完璧に負け、自由意志を放棄すれば、私の優しさを理由にロベスピエールの姦計に引っかかり、多くの人間を虐殺する羽目にはならなかったと思います。
 
 全ては神の試練に耐え切れなかった。意思脆弱な私の責任です。不思議なことに悪魔の耳自体とは不思議な縁を結んでいます。お互いにお互いを邪魔するものとして意識しているのに、同じ器に一緒にいる仲と申しましょうか、数ヶ月一緒にいると、周囲が血みどろのこんな状況でもなんとなく交流できてしまうものです。
 
 ここで告白しなければなりませんが、私はこれから過酷な戦場で死ぬまで戦います。全ては悪魔の耳を一度、私という器から追い出し、全てを正常に戻すためです。悪魔の耳は律儀なところは律儀で、不思議と今回の敵対行為に理解を示し、あろうことか「遺書」までピエール兄さんに渡してくれると確約してくれました。もっとも悪魔なので、本当に信用などできませんが。
 
 もし悪魔の耳が本当にこの手紙を兄さんに渡したらどうか、私のことを忘れてください。あなたにとって私は邪魔だったかもしれませんが、私にとってはあなたは最良の兄だったと思っています。
 
――最愛の兄へ あなたの弟 ジョゼフより”

 ピエールは手紙を読み終えると慟哭(どうこく)した。弟が陥った過酷な運命を知らず、彼を助けず、いや、そもそも彼を革命の荒波へと追い込んだ自分自身のかつての愚行を思い、子供のように泣きわいて――ピエールはジョゼフを思った。

「ジョゼフ、お前こそがこの村の神父となるべきだった。だが、お前なき今、お前の志を俺を告ごう」
 
 村人たちは日常の助言を、悩みの打ち明け先を、救いを、求めていた。革命の時代は、人々の命を軽くし、彼らの精神状態も悪化させるのである。
 
 ジョゼフが自身の過ちを自身の命でぬぐったように、ピエールも自身の過ちをその行動でぬぐわねばならないのだ。
 
 今日も神の家はあらゆるものを拒まず、常に扉を開けている。一人でも多くの人間に手を差し伸べるために。