ばいばいって言えるまで

彼の匂いがした。隣に来たのだと思った。何か言うのかと思ったけれど、彼は何も言わなかった。

1時間が経ってもふたりの間に会話はなかった。同棲当初に買ったダブルベッドに寝ていたのはずっと私だけだったから、ふたりで並んだのはとても久しぶりだと思う。


「彼方と付き合えて楽しかったよ。ありがとね」



返事はなかった。口数が多い人ではなかったにしても、こういう時まで返事をしないなんてと思いながらまぶたを閉じようとした時、「愛華」と呼ぶ声が聞こえた。久しぶりに名前を呼ばれたからか、心臓がドキッと大きな音を立てた。

まどろみの中で聞こえた言葉は、さっきと同じ「ごめん」だった。


きっと聞こえ間違えたわけではなかっただろう。

彼なりの精一杯だったんだと思う。







隣に寝ている彼は私が好きだった彼ではない。いくら過去が明るくても、そういう過去にしがみついていても私は幸せにはなれない。

そういう人と付き合うことは出来ない。悔しいけれど、もう戻れないのだと知った。



そして私は引っ越した。
地元に戻ったわけでもなく、彼と居たところでもなく、ずっと住んでみたかった都市に引っ越した。

彼と会うことは絶対にない。
寂しくもあったし、切なくもあった。


忘れて恋愛でもしようと切り替えられるほど薄っぺらい恋愛をしていたわけじゃない。

後悔もある。だけど別れたことに後悔はなかった。



前を向けば新しい世界が広がっていた。
彼に向けていた気持ちをまたいつか、誰かに向けるのだと思う。

いつか笑って思い出せるような、そういう日々を送るのだと思う。




ばいばい、彼方。