翌朝、ベッドの上で私は蹲って枕を抱えながら、しばらくぼんやりとしていた。

起きるのが嫌だ。制服に着替えて、学校に行かなければいけないと思うと、気が滅入ってしまう。

今までは英里奈がメッセージをくれていたから頑張れた。けれどその関係ももう失った。またあの場所へ行くのが怖くて、でも行かないことも怖い。

今日休んでしまえば、私はもう二度と学校へ行けなくなってしまうかもしれない。


すぐ傍に置いていたレインドームを手に取って、ガラスを指先でなぞる。

きっと気のせいだろうけど、今日はガラスの中の雨が強く降っていて、桜の木を揺らしているように見えた。


「紗弥〜!」

ドアの向こう側からお母さんの声が聞こえてくる。

もう起きなくてはいけない時間だ。

私は横になったまま重たい体を引きずるように、ベッドから床へとゆっくり落ちる。冷たい床につま先が触れて、少しだけ頭が冴えてきた。


——行かなくちゃ。

今日は担任の先生と事情を話す約束をしているため、休むわけにもいかない。

きっと休んでしまえば、また電話が来てしまう。そしたら今度はお母さんにも知られてしまうかもしれない。それにまた具合が悪いなんて言い出したら、お母さんに不審がられる。

私の状況をお母さんが知ったら、どう思うのだろう。

きっと悲しませて、気に病んでしまう気がする。お母さんのそんな姿を見たくない。


あと少し……もう少しだけ頑張ろう。

物を隠されたり暴力を振られているわけでもないし、悪口や嫌な視線を向けられることに耐えればいい。

本当に限界がきたら話そう。今はまだ、私は自分の足で学校に行ける。……大丈夫。


心の中で自分を励まして、私はクローゼットから制服を取り出す。シャツに腕を通すと、ひんやりとした感覚が肌に伝わる。普段はなんとも思わなかったそれが、今は不快に感じた。


早く今日が終ってほしい。
朝から一日の終わりを考えて、ため息を漏らす。

リビングへ行ったら、ひび割れた心を小さく折り畳んで、本当の感情をから目を逸らす。そしてお母さんの前では極力笑顔を心がける。


「いただきます」

私は白米をお味噌汁で無理やり流し込んだ。食欲はあまりわかないけれど、残したら具合が悪いのかと心配される。

卵焼きの味もお浸しの味もよくわからないまま頑張って飲み込む。味噌汁の塩味だけが舌をピリピリとさせて、お茶を飲んでも消えてくれない。

神経質になっているのかもしれない。

気を紛らわせるために、私は部屋に戻ってから机に置いてあった飴を舐めた。オレンジの爽やかな味が口内に広がり、私は少し前に真衣からもらったチョコレートを思い出してしまう。

記憶と決別するように、ガリッと音を立てて噛み砕き、溶かしていく。

机の上に置いていた昨日購入した桜の髪留めを手にとり、お守り代わりにブレザーのポケットに挟んだ。
そしてブレザーごと抱きしめて、私は心の中でもう一度〝大丈夫〟と唱えた。



普段より遅く家を出たので、今日は予鈴五分前に昇降口についた。
クラスメイトがほとんど揃っている中で教室に入るのは、注目を浴びそうだと今更後悔する。

鉛のように重たい足で階段を上がっていき、一年生のクラスがある階まであがると違和感を覚えた。

昨日はあんなにも嫌な視線を浴びていたのに、今日は誰も私のことを見ていない。

他クラスの人たちは、もうみんな飽きて、どうだってよくなったのかもしれない。そんな淡い期待を抱きながらクラスに入ると、ちょうど廊下に出ようとした生徒とぶつかりそうになった。


「わっ! ごめん、大丈夫?」
「……あ、うん」

目の前に立っている真衣を見て、私はその場から動けなくなってしまう。
まさか普通に話しかけられるとは思わなかった。


「そこ通ってもいい?」
「え、あの」

出入り口を塞ぐように立っている私に真衣が困ったように眉を寄せる。傍にいる由絵からも昨日のような敵意は感じられず、ただじっと私を見ているだけだった。


「ま、真衣! 私ちゃんとあのことの話がしたくて!」
「あのこと?」

怪訝そうな顔をした真衣は、まるでなんの話かわかっていないような反応だ。

もっとはっきりと内容を口にした方がいいのだろうか。
周囲の目を気にしながら、「アカウントの話なんだけど」と言うと、真衣も由絵も顔を見合わせて首を傾げる。


「ごめん、また後ででもいい?」

慌てて横にずれると、真衣と由絵が通り過ぎていく。

そして、真衣が小さな声で放った言葉が私の耳に届いた。





「ねぇ、今の誰だっけ?」