【16-2】



 そんな突然の言葉を受けて、ゆっくり言葉を待っていると、美穂は毎日の生活を少しずつ話してくれた。

 習慣にはなってはいたけれど、毎日の服薬は続けなければならない。行動や食事にも気を付けたり制限がある生活は、風邪を引いて数日間処方された物を飲むというのとは訳が違う。

 行動だって他の人にはできるのに、自分にはできない。そんなジレンマの中で、どうしても自分自身の存在を卑下してしまうこともあっただろう。

「小田さんに会えて、最後にもう一回だけ頑張ってみようかって思えたって。もし、ダメだったとしても、失うものはなにもないからと……」

「そんな……、バカですよね……。竹下、人気あったんですよ? でも、小学校の頃って、感情表現下手でしたから」

「あ、それは私もなんとなく分かります。ちょっかい出している時って、本当は気になっているなんてことたくさんありますもん」

「そうですよね。それで『自分は嫌われてるんだ』って気づかないで終わってしまう。竹下もそういう時代だったと思います」

 何度か恋愛経験を重ねてくると、お互いの行動の裏側にある本音というものが分かってきて、相手との気持ちをすりあわせていく。

 小学生や中学生の頃ではまだ経験値も浅いし、そんな気持ちの中では周囲の視線の方を重視してしまうこともある。

 相手の本音を知って、自分の意識に気がついたときには後の祭りということの方が多いのだけど、彼女はさらに自分の中で劣等感を持っている中で『それ』を感じるというのは難しすぎると思う。



 突然、三河さんが強く手を握ってきた。

「どうかしましたか?」

「始まりました。一緒に祈ってください。美穂さんが無事に帰ってこられるように」

 なにかと思えば、人工心肺に切り替えが終わったという。

「大丈夫です。ここからは早いですから」

 大丈夫だとも分かっているし、難しい合併症などを持っているわけでもない。

 でも、「絶対はない」といつも美穂は言っていた。

 自分の意思で目を閉じるのではなく、麻酔によって意識を閉じさせられる。

 もちろん本人が途中で目を覚ましたりすると大変なことになるから、こんな手術をするには昔から麻酔というのはお約束だ。ただし、もし、その眠りから醒めることがなかったら……。

「小田さん、美穂さんからのお手紙はお持ちですか?」

「もちろんです。ふたりで話して来ましたから」

 まったく、どこまで話したのだろう。

 俺が着ているジャケットの内ポケットには、何枚かの書類が入った封筒を収めてある。

「美穂さん、言っておられました。『退院するときには名前が変わっていたい』って。最初は意味が分からなかったんですけど、お話ししている間に内容が分かって。小田さんがその準備を進めておられると」

「……ええ、この時間が終わって、面会を済ませたら行くつもりです」

「分かりました。美穂さんも楽しみにされていると思いますから」

 しばらくして、三河さんの手から力が抜けるのがわかった。

「もう大丈夫です。バイパスを無事に戻しました」

「えっ?」

 再びの三河さんの声に、なんのことだか一瞬理解が遅れた。

 予定よりもずいぶん早くないか? それだけの腕の医師の力量なのか?

 それとも……。でも、「もう大丈」だと言っていたよな。

 最悪の言葉が出てこないことを祈った。

「あとは縫合してから麻酔を解きます」

 三河さんの説明の声に明るさが戻った。違う。ちゃんと予定どおりに終わったんだ。

 無事に鼓動が戻ったこと。自発的な呼吸も始まって、人工心肺を外しても大丈夫なほどに機能が戻っていることも聞こえてきたという。

「よかったです。カルテに残されていた以前のどの回よりも早いです。美穂さん頑張られました」

「はい。そうですよね」

 ただ、まだ意識を取り戻しているわけではない。

 美穂が言っていた。自分はなかなか麻酔が抜けないから、意識の戻りが遅いことがあると。

 それも三河さんをはじめとする医療チームも分かっているようで、少し早めに全身麻酔を切り始めたと。

 皮膚の縫合であれば部分麻酔でも大丈夫だと教えてくれていたから。

「小田さん、私もそろそろお迎えの準備を始めますね」

「ありがとうございました。本当にお仕事の邪魔をしてしまって」

「いいえ、私がしたかったことです。ICUでお待ちしています。準備が出来たらまたお呼びしますね」

 三河さんは、自分の身内の手術が終わったかのようにホッとした顔をして扉を閉めて仕事に戻っていった。