最後に出た修人は、「また来る」とだけ言い残し、律儀にも扉を閉めて行った。
 一瞬の沈黙が場を支配し、空気が重くなるように感じられる。けれど、先生はそんな空気をぶち破るように、へらりと笑って降参するように両手を上げた。

「ね? 俺じゃ手も足も出ない」

 茶目っ気があるが、そこには自嘲の色も色濃く浮かんでいる。決して笑い話でもなかった。
 彼が一体どちらなのか――ともすれば、どこに位置する人物なのか、私にはずっと測りかねてきた。

「だからって、あなたが気に病む必要はありませんよ。俺が弱かった、ただそれだけです」

 諦めを含めた物言い。憂うわけでもなく、ただそうであるものだと受け入れた彼の傷痕に、私は何も言えない。
 確かに先生は弱いのかもしれない。けれどそれは、私が異常なだけだ。

「どうぞ、腰掛けて。あなたの手も消毒しないといけないでしょう」

 言われた通りに回転椅子に座り、されるがままに取られた手に消毒液を掛けられる。僅かに擦りむけていた程度だったので処置はすぐ終わり、離された手から熱が引いていく。
 アルコールの香りが空気を割り、僅かに先生の持つ雰囲気も変わった。立って見下ろすよりも、断然近くなる目線。むしろ私が見上げる形となり、先生の黒い瞳の中を覗き込む。
 逸らしてはいけない、と誰かに呟かれた気がした。

「篠原さん……いや、“お嬢”」

 懐かしく、つい最近まで呼ばれ慣れた呼び方。
 椅子から立ち上がることはしなかったが、脳内では記憶が渦巻いてあの光景を呼び起こす。