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そろそろ美容院行かなきゃなぁ、と秋吉女流二段は長い髪をまとめ直す。

「生活に追われて将棋どころじゃないよ……」

馨の姉弟子である秋吉は、差し入れに買って来てくれたネコ型のカップケーキを配りながらそう言った。
カップから顔を出すように作られたそれは愛らしく、潤んだチョコレートの瞳でこちらを見つめている。

馨は美澄にいくつか研究会を開いてくれていて、今日は秋吉とその友人の森川女流初段、馨、そして美澄の四人というメンバーだった。
場所は奥沼七段が主宰する将棋教室の別室で、時折講師やスタッフも休憩に訪れる。

盤を挟むと殺すか殺されるか、というやり取りになるが、盤を離れれば秋吉はもうすぐ四歳になる男の子の親。
家事と育児で思うように時間の取れない中、いかに集中して有意義な練習ができるか。
今はそこが課題だと悩みをこぼす。
森川も同意して、悩ましげに過去を思い返した。

「卒論のときはきつかったなぁ。締切は迫るし、昇級もかかってて」

くたりと頬杖をつくと、ハーフアップにした髪の毛も肩から落ちる。

「私、大学受験のとき一回降級したよ」

秋吉は笑って言うが、渦中にいる美澄の胃は締めつけられた。
早くから女流棋士を目指した人はその人なりに、学校生活や受験などと両立しなければならない苦労があるのだそうだ。

でもね、と鬼気迫る表情で秋吉は訴える。

「子育てしてみると将棋ってすごく楽しいよ。公園で日焼けしたり、ミニカー踏んで悶絶したりしなくていいもん。将棋サイコー!」

ネコの頭に容赦なくフォークを突き刺して、馨は盛大な苦笑を漏らした。

「秋吉さーん、俺まだ独身なので、結婚に夢持たせてください」

「する気ないくせに」

美澄はネコと目を合わせないように、後頭部からそっと食べ始める。
そんな美澄に、森川はテーブルから身を乗り出して忠告した。

「子育てもそうだけど、メンタル削られる恋愛は気をつけた方がいいよ。恋もボロボロ、将棋もボロボロで、本当に地獄だから」

訳知り顔で笑う秋吉に、森川はウェットティッシュを投げつけた。

「それは大丈夫です。何もないので」

あっさりとした美澄の返答を聞いて、秋吉と森川は馨に視線を向けたが、馨は少し肩をすくめただけだった。

秋吉はそうっとネコの耳を口に入れる。

「古関さんの場合は生活よりも将棋だよね。昇級かかってるときは、短期的にでも高い棋力を発揮しないと上がれないし」

「はい。頑張ります」

美澄の行く道は、棋士や女流棋士なら誰でも通ってきた道。
楽観的なことを口にしないのは、誰もがそのシビアさを知っているからだ。

「そこは内弟子だし、日藤くんが目を光らせてるから心配ないか。溺愛してるもんね」

「はい。かわいい弟子にめろめろです」

心にもない言葉はカラッと乾いていて、誰も真に受けない。

しかし、師弟の在り方はさまざまとは言え、これほど徹底指導する例は稀だった。
そのため弟子入り当初、あれこれ詮索されることもあったけれど、ほとんど美澄の耳に入ってこなかったのは、馨の人柄と立ち回りのおかげだった。
何を口にしても、馨は危うい雰囲気は毛筋ほども出さずに受け流す。