美澄はしばらく考え込んでいたが、突然、

「なんか、腹が立ってきました」

と言い出した。

「え?」

「なんか、腹が立ってきました。先生に」

「僕に? なんで?」

「わかりません。でもなんか、殴りたい」

美澄が握りしめた手を見てそう言うので、久賀は、えー、と情けない声を出す。

「せめて理由を」

「だからわかりませんって。でも、何もかも先生が悪い気がするんです」

理不尽に向けられた怒りに、久賀はしばらくうなだれていたが、

「……じゃあ、殴りますか?」

と、美澄の目線まで頭を下げた。

「いいんですか?」

「それで気が晴れて将棋に集中できるなら、甘んじて受けます。あ、でも手加減はしてください。痛いのは好きではないので」

眼鏡をはずし、目をつぶって奥歯を噛み締める久賀を目の前にしたら、美澄の中にわだかまっていた“何か”は霧散した。
そのあとにはあたたかな気持ちが広がる。

すぐ目の前から聞こえてきた笑い声に、久賀も薄目を開けた。

「覚悟が揺らぎそうなんですが」

「先生、ありがとうございます。もう大丈夫です」

尚も笑いながら、足取り軽く歩き始める。
下がって上がって、自分が何に振り回されているのか、美澄にはわからない。
どんな難解な局面も、この感情の動きに比べたら明快に思える。

「本当に?」

「はい。大丈夫です。なんだかお腹すいてきました。みんなにアイス買って帰りましょう」

眼鏡をかけ直した久賀がその隣に並んだ。

「食べ終わったら、久しぶりに指しましょうか」

「いいんですか!?」

「それを想定してお酒は断ったので」

美澄は久賀に抱きつかんばかりに目を輝かせた。

「私、先生に聞きたいことがいっぱいあるんです! この前の研修会の四局目で三間飛車を採用した時、▲6六角って上がられてそのあと桂馬跳ねるところで」

「ああ、昔流行したタイプの対四間飛車の相振り飛車でしたね」

「そうです。あの時、△5五歩突くタイミング、やっぱり遅かったですよね」

「▲6六に角上がって桂跳ねるのはひとつの形ですから、それを完成される前に━━」

「ちょっと待ってください! 盤欲しい」

眉間に皺を寄せて、美澄は久賀の言葉を遮った。

「まだ何も言ってませんが」

「先生は初期設定で頭の中に盤が搭載されてるでしょうけど、私は後づけなので電力使うんです。だから早く帰りましょう」

踵を返した美澄を久賀が呼び止める。

「アイスは?」

「アイス……買わなきゃダメですか?」

自分で言い出したことさえ面倒くさそうに美澄はしぶる。

「コピーすると言った棋譜もないでしょ。手ぶらで帰るのは不自然です」

「じゃあさっさと買いましょう。それでさっさと帰りましょう」

「それから、僕は七時半には出ます」

「えー! 全然時間ない……。先生、走って!」

残り100mを美澄は全力疾走する。
久賀もホッとした顔で、そのあとを追いかけた。