『……その人と将棋の話はしましたよね、当然。戦法とか、勉強内容の話もしましたか?』

「はい。しました」

『負けたでしょ。その人とやって』

「……はい」

気持ちに動揺があったことも確かだが、序盤から作戦負けで、終始梨乃のペースだった。
思考が読まれているような不安から手が伸びず、指先から崩れていく感覚に襲われる。
ひとりできりきり舞いしてひとりで転んでひとりで負けた。
そんな不甲斐ない将棋だった。

それを聞いて、久賀はため息に似た悩ましい声を漏らす。

『研修会は棋譜を取りません。だから、誰がどんな戦型を得意としているのか、今何を勉強しているのか、そういう情報が、勝敗につながることがあります』

「……はい」

聞かれるままに何でも話した。
同じ苦しみを共有していると思っていたから。
梨乃の意図が情報収集であったかどうか、美澄にはわからない。
ただの日常会話だったと思いたい。
でも、知り得た情報は利用するだろう。
それは卑怯なことでも何でもない。

『他者から向けられた悪意による傷は、簡単に癒えるものではありません』

変わらない淡々とした声で、けれど傷口に手を添えるように、ゆっくりと久賀は話す。

『例え他人から見て些細に思えても、タイミングや、そもそもの人間関係や、状況など、さまざまな要素が重なって、深く傷つくことはあります。その際、されたことの内容はさして重要ではありません。あなたがもし『些細なことで傷つくのは自分の弱さだ』と思っているなら、それは違うと僕は思います』

泣いていい、と言われたのだと美澄は思った。
長ったらしく回りくどい、久賀らしい言い方で。
顎から膝に落ちようとする涙を手の甲で拭い取る。

『……『服が変』については、フォローできませんが』

さっきと同じ真剣なトーンでそう言われ、美澄は吹き出した。

「先生、正直」

『でも、僕はきらいじゃないです。慣れたので』

沈黙が降りても、どちらも通話を切ろうとしなかった。
お互いの気配だけが電話回線を伝って届く。

『残念ですが、将棋において年を取ることは、あまりメリットの多いことではありません。でも、人間としては特に卑下すべきものでもないと思いますよ』

布団に寝転がり、白い天井を眺める。
ここは東京の馨の部屋。
けれど久賀の声が聞こえる。

「先生はきっと、白髪頭になってもあのカウンターに座ってるんでしょうね。今の平川先生みたいに」

『いや、その頃には移転するかリフォームしたいです。今のトイレ、水量がたいぶ少なくなってるので』

「そうでした。懐かしい」

トイレ掃除は毎日久賀がしているのだろう。
ブラインドに埃は積もっていないだろうか。

「先生」

『はい』

「ありがとうございます」

何が解決したわけでもない。
お互い黙っていると何も聞こえない。
姿も見えない。
けれど、ただそこにいるという事実に安心して、美澄は目を閉じた。