「他人の家に居候するって、しんどいよね。それはわかってるつもり。油、火つけるよ」

揚げ鍋に火をつける綾音に、アジにつけた小麦粉を落としながらうなずいた。

「みなさんには本当に感謝しています。そのご恩に報いるには、ちゃんと女流棋士にならなきゃいけないのもわかってます」

「私たちのことはどうでもいいよ。たいした協力できないから。でも、夏紀は違うでしょ」

久賀の名前が飛び出して、アジを卵にくぐらせていた手が止まる。

「夏紀、テーブルに頭つくくらい深く頭下げたらしいよ」

揚げ鍋に菜箸を入れて、油いいよ、と綾音が呼ぶ。
作業はまったく進んでおらず、慌ててパン粉をつけたせいで、床にかなり飛び散った。

「古関さんが男だったら、夏紀が苦労しなくても受け入れ先は見つかったと思うんだ。でも、女はねぇ」

久賀は最初、馨の師匠である奥沼七段にお願いしたらしい。
奥沼門下は人数が多く、姉弟子もたくさんいるから知り合いも作りやすいと考えた。
奥沼も了承してくれたのだが、その妻が、他所のお嬢さんを預かるには身体が辛いと言ったらしい。
他に何人頼んでも、内弟子となると家族の了承が得られなかった。

「仕方ないよね。ただ他人と生活するってだけでも大変なのに、若い女の子が家にいるって気を使うもん」

男っていくつになっても男だって言うからね、と汚いものを見るように吐き捨てる。
綾音が言うように、男だったら受け入れてもいい、という声はあったようだ。

久賀は女流棋士にも何人も頼んだ。
けれど、そもそも弟子を取ってもいいという人自体見つからなかった。

綾音は左手でビール缶を持ち、右手で鍋に油を回す。

「最初はうちの母に頼みに来たの。うちはほら私もいるし、同居すること自体は可能だけど、母は弟子を取る気がなくて」

そこで久賀は馨に頭を下げた。
それまでずっと黙って聞いていた馨は、ひと言「いいよ」とあっさり受けたそうだ。

鶏もも肉を入れると鍋から油の弾ける大きな音がする。
綾音は少し声を張った。

「夏紀が馨に投了以外で頭下げるなんて、天地がひっくり返ってもないと思ってた」

『よっぽど』の理由。
それは美澄にではなく久賀にあった。
馨にとっては十分なほど。

アジを引き上げることを忘れていた。
尻尾がすっかり黒くなっていたけれど、身を食べる分には支障なさそうだ。

「これをプレッシャーに感じる必要はないし、結果的に女流棋士になれなくてもいいと私は思う。でも、夏紀と馨の想いは知っておいて欲しい」

はい、と答えた声はかすれて、ほとんど吐息だった。

キャベツ忘れてた、と綾音が言うので、美澄は野菜室からキャベツを取り出す。
それを持ったまま冷蔵庫を見上げた。
将棋教室の月間予定表やキッチンタイマーが張りつけてある、さらにその上を。

「ねえねえ、このポトフの味、微妙じゃない?」

美澄は差し出された小皿から透明に近いスープを口に含む。

「……ぼやっとしてますね」

「ぼやっとしてるよね」

「どうしましょう?」

「シチューにしちゃおうか」

「そうしましょう」

美澄はキャベツを冷蔵庫にしまって、戸棚からシチューのルーを取り出した。