日藤家へと戻る美澄の足取りは軽い。
この夏初めて買った日傘は重いけれど、今はそれも気にならない。
左手ではスマートフォンの画面を開いては閉じていた。

「先生、お久しぶりです。お元気でしたか? 今日勝って、C2に昇級できました」

口の中で何度も練習したセリフはさりげなく言えるだろうか。
緊張してなかなか通話ボタンを押せない。
陽が落ちても下がらない気温で、スマートフォンを持つ手も汗ばんでいる。

声がかすれているような気がして、ペットボトルの水を飲み、咳払いを数回した。
画面に「あさひ将棋倶楽部」の番号を表示させて、またしても逡巡する。
倶楽部はもう終わった時間で、後片づけをしているはずだ。
報告だけして切れば、さほど迷惑にはならないだろう。

通話をタップする指がそれでも臆病風を吹かせ、数回目でようやく押した。
呼び出し音より、鼓動の方が大きく聞こえる。

『はい、あさひ将棋倶楽部です』

落ち着いた声が聞こえて、美澄も肩の力を抜く。

「もしもし。平川先生、お久しぶりです。古関です」

『ああ、古関さん。お元気でしたか?』

「はい。平川先生もお変わりないですか?」

『こちらは相変わらずです』

にこにことあたたかみが電話越しに伝わってくる。
平川を前にすると心がアマチュア1級に戻っていく。

「今日、ようやくひとつ昇級して、C2になりました」

『それはそれは。おめでとうございます』

「ありがとうございます」

『C1、B2、あとふたつですか。近いようで遠いですね』

「はい。頑張ります」

それでも一歩前進できたことで、美澄はようやく倶楽部に電話することができた。
一時は最悪の報告も覚悟したので胸を撫で下ろす。

美澄が言葉を続けるより早く、平川がわずかにトーンを落とした。

『残念なんですが、久賀先生は今日企業の将棋部から依頼されて指導に出ているんです』

声が出ず何度かうなずいたのだが、伝わらないと気づいて、そうでしたか、と付け足した。

『久賀先生にも伝えておきますね』

「よろしくお願いします」

通話を切ると、左腕がぐったりしていた。
変な力が入っていたらしい。
曲げていた肘の内側を汗が伝い、ハンカチで拭う。

スマートフォンをバッグに入れて、すぐ隣にあった手帳から「夏休み集中レッスン」というチラシを取り出した。
その裏面には、姿焼きの棋譜が手書きで書かれてある。
いつも持ち歩くせいで縁が少しよれていた。

大雑把な文字ながら、きちんと並べて書かれてあるのでとても見やすい。
すでにそらんじられるほど見たけれど、本当にひどい将棋だ。
この棋力で久賀に勝負を挑んだという度胸以外は褒めるところがない。
もう一度目を通して、元通りバッグにしまった。

足元には日傘の影が黒々と伸びている。