「行った方がいい、とわかってます」

「はい」

「でも、私が東京に行ったら、先生とはどうなるんですか?」

ここまで淀みなく答えてきた久賀が言葉に詰まった。

「……『どう』って?」

「私が東京に行ってしまったら、もう倶楽部に行くこともなくなってしまうじゃないですか。実家もこっちじゃないので」

「はい」

「私、ずっと先生に教えてもらえると思ってたので、今ちょっと混乱してます」

スティックシュガーを二本とミルクを入れたコーヒーは甘ったるく、それでもさらりと喉を通った。
口当たりは軽く苦味も少なく、なるほど前途の幸を願う『彩路』というネーミングは正しい。
それでも美澄の眉間には皺ができた。

「僕は棋士ではないので、弟子はとれません」

「それは、わかってるつもりでしたけど、」

美澄はがくりと首を落とす。

「わかってなかったんですね」

いつまで経っても動かない美澄に、久賀は困ったように言葉を重ねる。

「日藤先生はとてもできた方です。僕の知る限り最も信頼に足る人だと思っています。認めたくはありませんが」

子どもっぽくむくれたような表情は、久賀にしては珍しい。
そこに美澄の知らない過去が覗いていた。

「実は他にも幾人かお願いはしたのですが、日藤先生が引き受けてくれてよかったと、僕は思っています」

美澄は何度もうなずいて、ようやく頭を上げた。

「先生がそう言うなら、そうなんだと思います」

美澄は握りしめていたフォークを置いた。
明確な理由が乗ったチーズタルトは重く、これ以上ひと口だって食べられる気がしなかった。

「ご両親のこともありますし、大切なことですから、ゆっくり考えてください」

久賀の表情は悲しいほどに穏やかだった。
言葉でどう言っても、美澄が女流棋士を目指す限り、そこに選択の余地はないのだろう。

「私、行きます」

ゆっくり考えろと言われたにも関わらず、美澄はひと呼吸ののちに答えた。

「先生のことだから、すっごくいろいろ考えて、これが一番いいって思ったんですよね」

「そうだとしても、これは他人の一提案です。鵜呑みにせず、自分で考えて納得して決めてください」

美澄は強く首を横に振った。
ずいぶん伸びて、ひとつにまとめた髪の毛が背中で揺れる。

「いいえ。行きます、東京。先生がそう言うんだから、行きます」

それはささやかな反抗だった。
自分では選ばない。
考えない。
あなたの言葉だから信じる。

「よろしくお願いします」

机にくっつくほど下げられた美澄の頭に、久賀は寂しげな笑みを落とす。

「わかりました」

窓の外では雪が雨に変わっていた。