日藤(ひとう)(かおる)四段という棋士をご存じですか?」

おもむろに久賀が口を開いた。
日藤という棋士も知らないが、久賀の意図もわからず、美澄は甘さ控えめのタルトを咀嚼しながら首を横に振った。

「日藤先生は現在二十六歳で、プロになって三年目の若手棋士です」

「先生のお友達ですか?」

「いえ、知人です」

妙にきっぱり言い切ってから、久賀はひと呼吸ついた。
そして、ひと言ひと言ゆっくりと言葉を差し出す。

「日藤先生のところに弟子入りしませんか?」

女流棋士になるなら、いずれ誰かのところに弟子入りすることになる。
それはわかっていても、これまで明確にイメージしてこなかった。
美澄は薄く唇を開いたものの、黙って久賀を見つめる。

「日藤先生は一人暮らしをされていますが、ご実家も都内にあって、将棋会館まで電車で一時間程度です。お母様は、今は引退されましたが、数年前まで女流棋士でした。お父様もアマチュアの強豪として長く活躍された方です。昨年、ご自宅の近くにおふたりで将棋教室を開かれました」

「先生、あの……」

「そこに、内弟子として入ってもいい、とお許しをいただいています」

「内弟子……!」

平成初期まで、地方に生まれて棋士を目指す子どもたちは、内弟子として師匠の家に住まわせてもらい修行を積むことがあった。
交通機関の発達と、何よりインターネットの普及によって、地方でも情報を得ることが可能になったことで、現在内弟子に入る人はほぼいない。

「家事を手伝ってくれれば、生活費のすべては面倒みてくださるそうです。それから、将棋教室の手伝いには、わずかだけど報酬も出すと言ってくださってます。また日藤先生の師匠である奥沼七段の教室までは電車で三十分。そこで勉強させてもらえるようにお願いしてあります」

次々語られる内容は驚きの連続で、頭の中をすり抜けていく。
ただ、この話が破格であることだけは理解できた。

「あの、なんでそんな好条件……。見返りは?」
「あなたが女流棋士として活躍することでしょう」
「それだけですか?」
「それだけです」

目を伏せて考え込む美澄に、久賀は覗き込むように首を傾ける。

「何か腑に落ちないことでも?」

「いえ、ただ単に、話がうますぎるような気がして」

「師弟制度は、人材育成支援であると同時に、自ら得たノウハウを後世に伝えるためでもあります。単純な利害とは別の話です。もちろん、師匠によって個人差はありますが」

美澄は俯いていたが、それは悩んでいるわけではなかった。
突然のお出かけ。
チーズタルトの理由。

「……これかぁ」

『お見舞い』ではなく『餞別』。
久賀が敷いてくれたレールをひたすら走ってきた美澄に、彼は新たなステージを用意してくれた。