「先生は、『自分には何もない』って言いましたけど、私から見たらすごく贅沢だなって思います。だって先生は、小学校一年生で将棋に出会ったんですよね。それでずっと将棋を追いかけてきた。近くに将棋教室がたくさんあって、周りに強い人がたくさんいて、応援してくれる人がたくさんいて、将棋会館にも通えた。思う結果は得られなかったかもしれないけど、すごく素敵な恵まれた人生だと思います。何より、あんなにきれいな将棋が指せるじゃないですか。羨ましいです。私は、何もないんですよ。本当に何もないんです。昔から「しょうらいのゆめ」を書くのが苦手でした。プリンセスにもケーキ屋さんにもなりたいと思わなかったし、学生時代打ち込んだ部活もありません。アイドルやアーティストを追いかけたこともありません。高校も成績をみて行けるところ。大学だって高校の担任が勧めたからこっちに来ました。私は、何かに夢中になる感覚が欠落してるんだと思ってました。派手な服を着るのは、せめて明るい気持ちでいたいからです。苦しいですよ。何のために生きてるんだろうって、ずっと思ってました。誰か鉛筆でも転がして人生決めてくれないかな、って思ってました。こんな年で将棋始めて女流棋士になろうなんて、せっかく進学させてもらった大学をやめるなんて、愚かだと思いますよ、自分でも。でも、悔しくても苦しくても好きだと思えるものに、やっと出会えたのに。それなのに……すみません、こんな話」

弱った身体を削るようにして美澄は吐き出した。
呼吸が少し乱れている。

「いえ、こちらこそ、身体がつらいときに余計なことを言いました。本当にすみません。もう休んでください」

沈黙が降りた。
ここは点滴のリズムで時間が過ぎていく。

「今、何時ですか?」

久賀は腕時計を確認して「十八時七分です」と伝えた。

「面会時間、大丈夫ですか?」

「十八時までだそうです」

「じゃあ先生も、もう帰らないと」

「そうですね」

久賀はそれでも少し迷って、ようやく腰を上げた。

「お大事にしてください」

「ありがとうございました」

ベッドサイドのカーテンを久賀はゆっくりと引く。
すぐに美澄の姿は見えなくなった。

「先生」

カーテン越しの声ははるか遠くに聞こえる。
久賀はカーテンに手を伸ばしたが、触れることはできなかった。

呼びかけた美澄は、しかし誰に話しかける風でもなく、ひとり言のようにつぶやいた。

「私は、先生に生まれたかったです」

そんな風に望んでもらえる人間ではない。
なぜなら、自分は今これほどまでに無力だ。

久賀は足音を立てないよう、そっとその場を後にした。